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ネットやコンピュータを体の一部とする人に限って本をたくさん読んでいる

本とネットは対極にあるかの様に語られることが多いが,実は裏の裏は表なんじゃないかという話.

デジタル時代に書籍は淘汰される?

前エントリで,「ネットやPCが第6感となっている のではないか」と書いたけど,それを推し進めれば情報をすべてPCやネット経由で得ることができるように なり,またすべてPCやネット経由でパブリッシュすることができるようになるのではないかということになる. そうなれば,これまでのアナログな技術というのはどんどんなくなっていくのではないか.

たとえば書籍.文字の情報伝達についてはインターネットはすでに熟練の域に達してきている一方,まだまだ これからその伝達スピードや質は変化していきそうな勢いがある.それに比べれば書籍なんてのは それが登場してから(多分)何百年も経つのに全然変化がない.確かに小さな進化はあるのだろうが, メディアとしての質を変えるほどの変化はほとんどないと言っていい.こんな古いメディアはつぶされて しかるべきだ,という議論になるのも当たり前だろう.

技術的な観点からいえば,文字はデジタルデータにすることで検索性が生まれ,パーマリンクを与えることで 参照性が生まれる.この2点において書籍は圧倒的に不利だ.また,アナログな媒体=紙を必要とする点で, その伝達にかかるコストは有限であり,たとえばブログのように伝達コストを限りなくゼロにすることは不可能だ.

本の持つアナログ性

でも,僕は本はなくならないと思う.その理由は,やや逆説的だが,「本のアナログ性」にあるのだろう.

それとは比にならないぐらい、恋しく思ってしまったものがあったそうです。なんと、本の厚さでした。この厚さという触覚フィードバックが無いと、どのぐらい読んだのか? あとこの先どのぐらいの物語が残されているのか? を感じることができず、不安になるそうです。

妻が発見! 電子書籍リーダーに欠けてるもの。 : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ

これはTumblrで最近流れていたのですが,その通りでしょう.厚さをはじめ,本の持つ様々な アナログな特性を再現したデジタルデバイスができないとは言いません.むしろいずれ可能でしょう. しかし,そんなことしなくても本があるわけ.ガジェット開発側が目指すべきは,本のクローンでは なく,次の様にアナログとデジタルのインタフェースとなるものだろう.

本を読むネット人

それはともかくとして,本の「厚さ」には残りを示すメッセージとともに,1冊分のボリュームというか, 一種のパッケージ性をアフォードしていると僕は思う.

前から言ってる様に,ブログの上のレイヤーとして書籍があると僕は思っている.

ブログは本の代替ではないと僕は思う.自分の考えをきっちりとまとめてパブリッシュするには 書籍というメディアは欠かせない.アナログとしてそれを「持っている」という所有感はかけがえない. どうもその感覚は脳に情報として所有している感覚にもつながっているような気がする.

こういう風に思う理由として僕が挙げたいのが,タイトルにもつけたことだ.つまり,ネットを中心にして 生活している人ほど,本を読んでるんじゃないかということ.ブログなんかで情報が十分なんだったら 本なんか読まなくてもいいはずなのに,彼らはものすごい量の本を読んでいる.

例えば,ニコニコばっかり見てるとか,P2Pばっかりとか,プログラミングばっかりとか,そういう ギーク的な使い方をしている人は違って,そういう人はまさにネットやコンピュータという「第6感」に 強く依存して生きている.僕がここで言っているのは,dankogaiやTwitterにいる人々など, ネットを言説の場の一つとして捉えている人達のことで,彼らは「第6感」を他の5感と同列に並べて いると思う.

こういう人達は,ネットとはそもそも縁遠い人からみればギーク達の様に「第6感」につよく依存していると 見えてしまう(そもそもこういう人にとってこの2種類の区別もつかないんだろうけどw).そして 彼らをして,本は死んだとか言いそうな気がする.でも,実際は違う.例えばdankogaiの書評エントリが 持つ影響力は,すでに出版業界の営業マンでも知っている情報のようだ.

営業:「実はね、彼は技術者でプログラムも作るんだけど、最近はブログがすごいんですよ。」

店員:「はい?」

営業:「何がすごいって、ブログで色々な本の書評を書いているんだけど、彼が取り上げた本は、すごく売れるんですよ。もうほとんど!」

店員:「へーぇ」

[て] ダンコーガイ氏のブログ読者が増えた瞬間: 大阪てきとー日記

メディアとの距離感

ネット・コンピュータからの距離が遠ざかる程に,本や新聞などアナログメディアへの依存度が リニアに増えていくと,一般には考えがちだが,実はそんなことはない.むしろ,ネット・コンピュータと 同じくらい書籍から距離のある人間がものすごい数いるのが現代なのではないだろうか.

それはもはや僕が言うことでもなく,テレビやラジオといった,活字によって構造を理解する必要の ないメディアが普及したことが一番の原因だ.これまでは言葉のみから構造を理解できる人にしか 開かれていなかった世界に,より多くのひとを送り込むというミッションに成功したこれらメディアには 敬服せざるを得ない.しかし,彼らは決して自分の頭で,言語を使って考えることなしに, 下手な意味で「感覚的に」自分の前の現象を構造化している.つまり,マスメディア制作側の 意図した通りにしか物事を理解できなくなってしまっている.

「活字離れ」のウソ

「活字離れ」ってのが騒がれて久しい.確かに,80・90年代なんかは新聞や書籍からみんなが離れていき, 映像・音声メディアに移っていった意味で本当に活字離れしていたのだと思う.実際僕もそうだった. しかし,最近はメールやSNSなどでみんな日記を書いていて,活字も読んでいると言われ,実は 活字離れはもう幻想だと言われることがある.

果たしてそうだろうか.メールやSNSで書かれる文章はすでにマスメディアやムラコミュニティに よって「メタ化」されてしまったコンテクストの上で交わされる表面的なやりとりにすぎないと 僕は思う.それはやはり構造の理解や獲得につながるようなある意味で「クリエイティブ」な 活字ではないと思う.

「活字離れ」という言葉自体の認識論のズレが多分問題.昔の「活字離れ」ってのは多分その裏に 「言葉で考えない人達が増えた」ということを含んでいたはずなのに,最近は現象として活字を 読んでいるかいないかだけが興味の対象になっている気がする.

いいから黙って本を読め!

だいぶ脱線したのでもとに戻すと,書籍を読むということは人間の根源的な営みなんだということ. 今,こういった根源的な営み(哲学と言い換えることもできるかも知れない.哲学学ではない)に 興味のある人は,「ネット and 書籍」という両極端に集まっている.それはまるで,一つの軸を 折り曲げて両端を重ねた新たな「端」ができるかの様なもので,新しい時代に入ったなと 感じざるを得ない.

ということで,他人にバカにされたくなかったら,ネットで情報を得るとともに「書籍」を読め. 最もプリミティブに他人に近づく方法が書籍を読むこと.実際に会って話すことよりも,よっぽど コミュニケーションできると僕が思ってしまうのは,僕が面と向かったコミュニケーションに 齟齬を抱えているからなんだろうなと,自虐するのはよくないなぁ><

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[blog][戯言]魅力的な文章を書く人がいる。

ブログを情報の提供者という観点から見たとき、その人気とコンテンツのクオリティが比例しないという事実はいささかやるせない気分を引き起こしはするものの、逆に、自分だけがあ…

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