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一般人とエキスパートの間で-方法論的哲学を持った境界人

またしても自分のアイデンティティに対する絶望を抱いてしまったが, 「境界人」という構造を見出してなんとか乗り切ることができた. 同じように困った人がいたとき用にメモしておくのでどうぞ.

再びの挫折感

昨日,このTwitterまとめを読んでいて,せっかく建て直ってきた 自信というかアイデンティティがぷち壊された.

僕は構造構成主義というものについこの間出会って,やっと世界や 自分の見方がわかってきたところなのは,このブログにやTwitterに 書いている通り.しかし,このまとめに登場する頭のいい彼らにかかれば あっさりと切り捨てられてしまっている.もっと言えば,構造構成主義を 応用しようとしている僕みたいな人が綺麗さっぱり切られている.

中でも最も僕の心に傷を与えたのが,この文言.

「19ぐらいになって竹田の『現象学入門』読んで感化されるようなやつに 哲学は無理だってこと。自分の専門の心理学の方法論磨くこと、そこから 成果を出すことだけ真面目に考えてろ。」

23になって西條先生経由で竹田先生の現象学の考え方をやっと初めて知った 僕なので,この説に従えば哲学は不可能ということらしい.これを 読んで泣きたくなって絶望した.やっと前に歩ける理路として構造構成主義に 出会うことができて,これで物事考えていけると思った矢先に, 「いや,遅すぎでしょ」と言われた.

「これやりてー」って思ったスポーツに出会った時にはすでに40過ぎだった みたいな感じなんでしょうね.スポーツは年齢ではっきりわかるから まだ諦めがつくけど,思想の範疇は判然としないからだましだまし できたかも知れないが,ここまではっきり言われるとがっくりくる.

でも,そんなこと言われたって,そもそも哲学と出会う機会がなかったんだから どうしようもないと思ってしまう.もちろん高校の倫理で出会う機会は 最低限あったはずだが,ただの暗記科目として処理されていたから 僕のフィルタにはかからなかった.今になってたまたま本に出会って 気づいただけなのに,「もう遅いよ」って,それはあまりにも酷じゃない だろうか.

他にも,彼らの書いていることを読んでも,「言葉」と「人名」が意味するものが さっぱりわからないので,9割は言ってることがわからない.最近の 僕はそれに焦りを感じて,ラッセルの「哲学入門」などを読み出したり, 「方法序説」やアリストテレスなどにも手を出さないといけないなと 思ったりしている.彼らは「まずは一つの本をじっくりと」と言うが, こんな年齢で初学者の僕がそんな悠長なことは言ってられないと焦っている. 彼らの発語の裏の意味を汲み取るために,もっともっと勉強しないとやばい, そう思っていた.そんな折に,さっきの一言である.どんだけがんばっても 君じゃもう間に合わないよということ.あーあ,もう終わった. せっかくこの世界なら少しは生きていけそうだったのに.

エキスパートな人達と,一般人と,その間と

そんな思いが一瞬で巡ってきて,速攻で死にたくなった.

でも,ちょっと待て.僕は「手段」と「目的」を履き違えているんじゃないか.

僕は卒論のあの時期から死ぬほど悩み続け,何を生きる支えにしたら いいのか探し続け,ひとまず落ち着ける場所を見つけた.それは, 「生きる」ことが「目的」であり,「哲学」は「手段」であるということを 意味する.しかしながら,さっきの僕は「哲学」が「目的」となってしまい, 目的が達せられないから「生きる」意味がないという結論に至っている. 完全に「手段」を「目的」にすりかえてしまっていた.

彼らが言うことがどうして理解はできるのに納得はできないのか. それは僕がどこまでも「境界人」だからだ.

彼らは哲学の「エキスパート」である.エキスパートには正当な学び方が あり,緻密な手順を踏んで徹底的に疑い得ないものを捜し求めるという 使命がある.これは,研究室で研究というものに対して僕が受けた 感想と同じだった.

おそらくどんな世界・分野でも,エキスパートと呼ばれる人達はこのような 性質の人達なのだと思う.例えばスポーツでも限られたトップの人達の ほとんどは小さな頃から正当な教育を受け,緻密な練習を繰り返し, さらなる極地を求めて鍛え続けている.そうでなければ一流の選手とは 呼べない,そういう空気がある.芸術でも似たようなものだろう. さらに,恋愛もこの範疇だ.中学か高校で彼氏/彼女ができて,キスして セックスして,それで初めて大人の付き合いができるみたな考え方も 恋愛のエキスパートと呼べるだろう.そして,もちろん「学問」も.

これは一見当然の様に見受けられる.一つのものを極めるのに, 20歳過ぎてからはじめるなんて遅すぎる.20過ぎて野球始めてプロ野球選手に なんかなれないのは誰にでもわかる話だ.誰でも最初はその分野の 「一般人」側にいるものだ.生まれた時からエキスパート側にいるなんていうのは 本当の天才にしかありえない.多くのエキスパートは一般人の平野から エキスパートの頂へ登るために,幼少の頃から鍛錬をつむのである. だから,成人してからはじめる様な人間はもはや手遅れだと.至極まっとうな 意見に聞こえる.

しかし,さっきも言ったように,これではあまりにも酷だ.出会う機会のなかった 者はどうすればいいというのだ.すっかりメタボになってしまってから 野球の魅力にとりつかれて草野球とか必死にやりだすおじさんがいたとして, そういう人に向かって平気でこんな言葉をかけることなんて,僕にはできない. 僕はそこまで聡明でもないし,諦めがよくない.

こういうメタボなおじさんを僕は便宜的に「境界人」と呼ぶ.「エキスパート」と 「一般人」の「境界」にいる人といった意味合いだ.そして僕はあらゆる ものに対して「境界人」でしかいられない性質なのだと確信している.

ここで,「エキスパート」「一般人」「境界人」の内容をはっきり整理しておこう.

「エキスパート」

ある分野の専門家やそれを目指す人のこと.多くは幼い頃から その道の教育を(受動的or能動的に)受けた中から選びぬかれたエリートであり, その道を極めるにはある一定の教育が必要だと考えている.

「一般人」

ある分野に対して専門家でもなければ興味もない人達.普通人間は生れ落ちたときには すべての分野について「一般人」サイドにある存在であるが,生きていく中で 自分がエキスパートとなれる道を(受動的or能動的に)探しだし,山を登り始め, 頂を目指して歩き続ける.

「境界人」

自分はエキスパートではないが興味のある分野に対してとる姿勢が,境界人の姿勢. 緻密で長い教育を受けるほど時間や労力はかけたくないが,興味はあるので できれば高速道路に乗ってある程度のところまでいってしまいたい. 一般人からエキスパートへ向かう途中の姿勢と混同しがちだが,一般人から エキスパートになる人にはその山を登ることが「目的かつ手段」だが, 境界人にとってはあくまでそれは「手段」でしかない.

山の例えで行けば,一般人は山に登らない人達だし,エキスパートは事前に登山と いうものを詳しく勉強してから,自分の足でえっちらおっちら歩いて登る人達, そして境界人は山のパンフを眺めながらロープウェイで登っていく人達. ただし,ロープウェイは山の途中で止まっている.

話を戻すと,僕はあらゆることに対して境界人でしかいられない性質なのだ. 山の頂を目指してどこまでも自分の足で歩ける実力もなければ,勇気もないし 覚悟もない,ただの臆病者.でも,この世にある(と思われる)全ての山に 挑戦してみたいと思っている.

冒頭で述べた僕の絶望は,自分のこういった性格を半ば忘れてしまって, 哲学のエキスパートとしてあるべき姿勢と現実の自分とのギャップを「絶望」と 感じてしまったということになる.こんなの2年前に克服したはずだったのに, またやってくるとは思わなかった.

コンピュータ科学のアナロジー

これだけ読むと,境界人なんてマスコミがやってる「ちょっと調べて全部知った気」 番組を楽しんでるだけで,何の役にも立たないと思われてしまうだろう. だが,それは違うと言いたい.それを説明するために,コンピュータ科学を 例に挙げよう.

コンピュータ科学とはここでは,コンピュータの構造(ハードウェア,ソフトウェア),情報理論そのもの, プログラミングやウェブなどなど,梅田先生の言うウェブリテラシの高度なものまで 含めて,と言ってもいいかも知れない.ともかく,コンピュータ関係の科学全般と捉えて下さい.

さて,例えばピュアな情報理論はまさに数学の世界だから論文とかバリバリ読まないと いけないし,ハードウェアの開発は量子力学まで必要である.ソフトウェアに ついてもコンピュータを完全に理解するにはマシン語やアセンブラ言語を 習得しないといけなかったり,OSの上のアプリ開発であってもカーネルを知らないと ダメなこともある.これら全てが「コンピュータ科学」という山の登山道には 散らばっていて,全て通っていかないと「コンピュータ」を完全理解などできない ということになる.

だが,一方で我々はWordであったりAdobeであったりFirefoxであったりを平然と 利用しているし,記憶容量が足りないと思ったらUSB外付けHDDを買ってきて 増設するこもできる.このとき人は「コンピュータ」の全てなんて到底知らないし, もっと言えば,一つの道についてすらほとんど知らない状態である.Firefoxを 使っている人の何割がFirefoxのソースコードを読んだことがあるだろうか. それにもかかわらず,多くの人がほぼ問題なく利用できてしまっているのである.

それがなぜ可能なのかといえば,コンピュータ科学の山の様子をそれ相応に わかっている人間が,山の様子を知りたくもない人達でも使うことのできるように 「インタープリット」してくれているからだ.ソフトウェアはCUIからGUIに 進化することで裾野を広げ,USBなどの統一規格がハードウェアの汎用性を高めた. もちろん,こういったものを作るにはそれぞれの内容の専門的な知識や技術が 必要になるが,他人をうまく利用することでそれが達成されている.例えば PCの部品はそれぞれ専門のメーカが出しているものを組み合わせて作ればよいし, ソフトウェアもハードウェアとのやり取りという難しい部分は全てOSに丸投げも できる.

ここまで言えばわかると思うが,「コンピュータ」を取り巻く世界はまさに 「エキスパート・一般人・境界人」を表しているのだ.「コンピュータ」という 一つの山に登るための登山道は長く険しいものであり,実はほとんどの人間には 到達不能な地点となっている.何とか,それぞれのチェックポイントへ向けた 小さな(本質的には大きい)山にはそれぞれのエキスパートコースがあって, それを邁進する人達は多数存在する.情報理論の研究者や,複雑なハードウェア開発者, カーネルまで理解してアプリケーションを作るエンジニアなどなど.これらの エキスパートになるには,それ相応の訓練が必要であり,はじめるのが遅いことは 致命的である.

その一方で,チェックポイントの山にも,コンピュータという大きな山にさえも興味は ない一般人も存在する.この人達にとって,ソースコードや量子力学などは当然どうでも いい話であるし,コンピュータそのものにも何の興味もない.

だが,ここに境界人が入ることによって,両者の交流が始まる.境界人は チェックポイントを登ることに時間をかけず,さっとロープウェイで適当なところまで 登り,コンピュータという山の全景をなんとなく捉えてしまう.それは当然 各エキスパートからすれば,曖昧でいい加減なものに映るだろう.しかし, 境界人の目的はそこにはない.先ほども書いた様に,それはあくまで手段なのである. 境界人は山の概観を手に入れさえすればよく,後は山を思い出しながらその絵を描いたり, 山を撮影した写真を使ってデザインをしたり,山のきのこを売ったりすることが 目的なのだ.頂でテントを張るのは目的ではないし,そんな領分でもないことを知っている.

そして,境界人によってコンピュータ山に全く興味のなかった一般人に山が 知らされるのである.先ほども書いたように,GUIの発展によって飛躍的に ユーザは増えた.今もコンピュータの周辺で起きている出来事,特に目に見える 出来事は境界人によって行われている.

以上が,コンピュータ科学を例にとった「エキスパート・一般人・境界人」の 説明である.境界人にはまさに「インタプリタ」としての役割があるのだが, たぶんそれを「目的」と思っている境界人もまた全てではない.だが, 結果としてそうなることが多いのであり,知を愛するものとしては境界人に よって一般人に広められることは,個人的にとても大切なことだと思っている.

また,境界人はエキスパートへのリスペクトと,エキスパート・一般人双方との 会話を欠かしてはいけない.「境界人のエキスパート」になるというのはおそらく 成立し得ない.どこまでも謙虚に生きてこそ,初めて優秀な境界人となれるのだと 思う.なぜならば,境界人だけでは何も成立することはないのだから.あくまでも 「境界」を生きる存在なのだ.

方法論的哲学の必要性

さて,最後に話題を哲学に戻そう.以上の議論を踏まえて,再度冒頭の 挫折を眺めてみると,性分として境界人でしかいられない自分が, エキスパート道の果てしなさに絶望するという,無駄な行為であったと思う. いい加減だ,論外だ,と言われようとも,それを真摯に受け止めつつも ロープウェイに乗らないといけない.なぜならば,僕にはあと60年程度しか 残されていないから.その間にまだまだやりたいことはたくさんある. たった一つの山に時間をかけてはいられない.

だがしかし,哲学という山はとても魅力的で,かつ多くを提示してくれる山である. 少なくとも私にはそう見える.なぜならば,2年ほど前に精神的に死にかけてしまった 自分を支えてくれたのは「哲学する」ことだったからだ.ただ,それが「哲学する」 ことだったとわかったのは,後になって構造構成主義を知ってからにはなるのだが.

哲学のエキスパートから見れば,西條先生なんて門外漢だろうし, 構造構成主義なんてツギハギだらけのボロ雑巾かも知れない.でも,それこそ 関心相関性なんだよね.エキスパートにとって哲学することは目的であり手段であるという 関心があるから,ロープウェイはクソみたいに見えて当たり前.むしろ, 境界人の側からすれば,そう見えるように作っているとさえ言える. 一般人が使える形にするには,エキスパートに疎まれる手法をとらざるを得ないことは きっと多いんだと思う.でも,それもきちんと双方と対話を続ければいつか 了解が得られるはずだ.そういう対立に対して「哲学する」ことができる人は 割と柔軟に対応できる.

そう,西條先生がやったことは「哲学する技術」を体系化したのであり, 「哲学」をしたのではない.そうでなければ,僕の様な哲学したことのない クソガキが哲学することが何なのか分かるようになるはずがない. 「構造構成主義」という名前が気に入らないのなら,別に好きな名前で呼べばいい.

今は「方法論的哲学」という呼び方がしっくりくる.一般人に対して「技術」としての 哲学を体系化したというニュアンス.コンピュータ科学で言えば,フレームワークを 作ることで誰でもWebアプリが作りやすくなったという感じに近い.

今まで,哲学にはあまり優秀な境界人がいなかったんじゃないかと思う. 僕の狭い観測範囲での稚拙な推測に過ぎないけど,もしもあるんだとすれば もっと広まってていいはずだと思うからそうなんだと思う.哲学を象牙の塔として 大事に守り抜くエキスパートは絶対的に必要ではあるけど,もう時代は グローバル化をむかえている.オープンにしていくことが重要だが, ただオープンにするだけではFirefoxは生まれない.オープンにしたソースに コミットしてくれる人,つまり境界人が必要不可欠なのだ.構造構成主義は コミットとしての「方法論的哲学」としてかなり完成度が高いと,僕には思われる. ただそれだけであって,いくらでも修正していきたい.決して「哲学する」ことは 「目的」ではなく「手段」なのだ.それを「方法論的」に込めている.

その一方で,手段としての効果を上げるためには,エキスパートへの リスペクトと対話は絶対に必要だと先ほど書いた.だから,彼ら哲学の エキスパートの話はずっと聴き続けていきたいし,できれば対話をしていきたい. しかし,そのためには僕は明らかに勉強不足だ.ロープウェイに乗るお金が ないといったところか.まずはお金を貯めるところからスタートしないと. ここのところで「目的」と「手段」を間違えそうになったのだ.気をつけないと.

構造構成主義は,それ自体がその理路の内部で説明される「構造」であり, 自分自身を修正することができる.これが「方法論的哲学」となりうる 重要なポイントだと思っている.たとえIEがソースを公開したところで 誰もIE自体は修正できないから何の意味もない.Firefoxのソースなら 修正をすることが原理的に可能なのである.

境界人として生きていく上で「方法論的哲学」は必須に近いかも知れない. 少なくとも僕にとって,このような文章を書くためには方法論的哲学は 必要であった.今ある現象はそれだけ.黙ってそれを受け入れて, 「好きを貫いて」生きていきたい.

コメント:2

shosira 08-09-17 (水) 1:29

読んでいて、こんな記事を思い出したので貼っておくね。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/49

riywo 08-09-17 (水) 6:44

>shosiraさん

どもども.さすがmedtoolzさん,例がうまいですなぁ.

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