インタフェースについてふと思ったこと

インタフェースとは、それが無くても機能はするがその機能をより使いやすくする存在。 例えば、公衆便所の掃除をする人だって、トイレと使う人の間のインタフェースだ。

文章を書くスピード差が呼ぶ質的相違

ペンで文章を書くこととキーボードで文章を書くことは本質的には 「文章を創造する」という点について変わりはないはずだが、 キーボードに慣れ過ぎたためにそのアウトプットのスピードに 尋常ならざる差が生まれたとき、意味は大きく変化してくる。

何が言いたいかっていうと、最近ペンだと文章が創発できなくなってきた。 頭の中に浮かんでくる文章の断片を捉えてアウトプットするのに、 ペンで字を書くという行為は遅すぎる。書いている内に浮かんできた 断片は消えてしまう。浮かんだ瞬間のパッションが薄れる。 キーボードの場合、両手を全力で使って書くので、現状のアウトプットメソッドの 中では脳の中を浮かんでは消える言葉の断片を固定化するのに最も 良い手段となっている。浮かんだ言葉を忘れない脳みそが一番いい気がするが 残念ながら僕の脳の記憶容量は極端に少ない。だから、記憶を外在化させることで しか有効活用できないので、I/Oのインタフェースは重要だ。

キーボードで言葉を書いていると、流れるように浮かんでくる。ペンで書いている 時にも味わったことのある経験だが、今の方が数段速い。で、キーボードで 浮かんでくるスピードに慣れてしまったたために、ペンのスピードでは 文が浮かんでこなくなった。それは、文というのはゼロから浮かんでくることはなく、 いま書いている言葉をフィードバックとして受けて産まれるからだ。 キーボードの場合、ある言葉が浮かんだ瞬間からすぐに目に見える形で 固定化されるので書きながらその固定化された言葉を見ていると自然と 次の言葉が浮かんでくる。それを繰り返しているといつのまにか文章が だらだらと長くなる。というのが僕がこうやってブログの記事を書く時の 書き方だ。従って、キーボード並みのアウトプットのスピードが無いと 何も書けない。

ペンで同じような書き方ができる様になるには、しばらくキーボードを封じて ペンのスピード、ペンのフィードバック(筋肉の使い方とか、間違った時の消し方とか 字の形とか)にしばらく慣れない限り、難しいだろう。本質は同じようだが、 単純にスピードが違うというだけで、そこには全く違うものくらいの差がある。

今までペンで原稿用紙に小説を書くという行為を何十年もやってきた作家にとって いくら文を書くという機能が同じでコピペとか編集が簡単だと言われたところで、 ワープロで文を書くという行為は、全く異質のもの。だから移行することができなくて 当たり前。

モノの機能だけを考える人は、こういう違いを気にする必要はなく、いくらでも 高機能なものを作ればいいだろうが、機能(効能)というものはそれを 使う人によって様々に使い方があって、それによって意図したものとは全く違う 効果をもたらしてしまうことがある。そこを上手く吸収するのがインタフェースという 概念。

インタフェースは凸凹を吸収する存在

僕がインタフェースをイメージするときに、下の土台の表面は凸凹していて、その上に 平面を持った箱を乗せる時、凸凹を吸収するような形の治具を噛ませる絵を想像する。 この場合、箱は機能であり凸凹の下には様々な人がいるということになる。 インタフェースは様々な人という凸凹に対して、等しく同じ機能を与えるという 治具の役割を果たす。それは、低反発スポンジの様に、凸凹を押し付ければ必要な 形に変形するものだったり、あらかじめ凸凹を計測してそれにあわせて適切に設計したり。

もしくは、凸凹が様々な機能を表して、平面が一人の人をあらわすかも知れない。 その場合、人はインタフェースによって様々な機能を同じようなメソッドで使える。 オブジェクト指向で言うポリモーフィズムみたいな。

ただし、凸凹と凸凹を向かい合わせる時には注意が必要だ。様々な機能を様々な人に ついて使いやすくする時など。もちろんその間にインタフェースが必要なのだが、 両方の凸凹にあわせてインタフェースを一つ設計するなんてことをやると大抵失敗する。 人間一つのことしかできないから、そういう設計をするとどっちかしか考慮していないか、 どっちも中途半端に終わる。例えば、住民基本台帳制度とか。

そういう場合には、間に一つ「人為的な平面」を置くことで、その上下では インタフェースの作り方が平面ー凸凹の時と同じようになる。この様に、うまく 平面を仮定してあげると、インタフェースが非常に美しくなる。

人為的な平面こそ人間にしか生み出せない存在

人為的な平面の例は、HTMLやIPなどが分かりやすい。どんな人もHTMLを解釈さえできれば ページを見ることができるし、どんな機能もデータのやり取りをHTMLにすることで そこから先の凸凹を考える必要がない。IPも同じだね。

そう考えると、人類史上最高にして究極の平面は「シャノンの情報定理」ではないだろうか。 最も簡単な平面のルール、すなわち「0と1」という平面を規定することで、あらゆる 情報がデジタルで扱え、あらゆる情報をデジタルで見ることができる様になった。 シャノンは史上最高のデザイナだ。

インタフェースをデザインすることは人為的平面を規定すること

ここでデザイナと言ったのは、一般的なデザイナとは多分違う。僕の中でデザイナとは 上で言った人為的な平面を引く作業をする人のこと。はっきり言ってしまえば、平面と 凸凹の間のインタフェースを設計することは、パフォーマンスを気にしなければ誰でもできる。 だって、I/Oが決まっているのだから。多分コンピュータで自動的に生成することもできる。 しかし、凸凹と凸凹の間に平面を仮定する行為は、自由度が大きすぎる。従って、誰でもできる ものではない。それなのに、誰でも使えるように設計しなければならず、困難この上ない。 これができる人こそデザイナと呼ぶにふさわしい。この辺は、プロダクトデザイナの深澤直人氏の 話を聴いた時に確信した。

この様なデザインの特徴は、誰に聞いても答えを持っていないけれど、ひとたび線を引いて しまえば、それがすばらしいものかカスであるかは誰の目にも明らかになるという点。 こんな線を引くのに、何度も線を引きなおして、細かい曲がり具合を修正するような やり方ではダメだ。最初にスッと引いた線がすばらしければどのように修正を加えても すばらしいし、ダメな線には何を施しても無駄だ。この辺はWindowsとMacOSの違いを 考えてもらうといいのかも知れない。

その意味で、現在のノイマン型と呼ばれる計算機のアーキテクチャを設計した人たちも すばらしいデザイナ達だ。様々なメーカが様々にパーツを作っても、アーキテクチャとして 必要なI/Oを整備すれば互換がきく。そして、そのI/Oには疑念を抱く余地がほとんどないと 言っても過言ではない。

平面のデザイナこそ人類の至宝

結局、平面を規定することが出来る人がいなければ、それ以外の人は何もできない。 デザイナこそ人類しか持ち得ない才能なのだと僕は思う。そして、それは誰もが 持つ才能ではない。出来る人にしか出来ない。ただし、様々な分野で必要なデザイン能力が 異なることも確かだろう。

最初にも書いたように、インタフェースとは機能に対して必ずしも必要ではない。別に 無くても使える。トイレはローマの時代にもあったし、今だって別にトイレで用を足す必要は ない。従って、インタフェースとは「無駄」そのものである。しかしながら、 機能だけでは人間は不自由だ。コンピュータだって不自由だ。人間とコンピュータの間に 高級言語というインタフェースが出来たからこそ、今のコンピュータの発達と人間の知能の 発達があるわけで、そこを無駄と言って切り捨ててきた自然科学はそろそろ再考すべきだと 思う。

工学は元々インタフェースの分野だったはずだが、最近では機能にシフトしつつある。 それがどうも僕の感覚とずれていた。機能を設計する能力とインタフェースを設計する 能力(この場合平面の規定が重要)は全く異質のものだ。深澤氏は天才的なデザイナだが 彼に全く新しい機能を持った掃除機を設計させることは多分愚の骨頂。それにはそれに適した 才能がある。これが適材適所ということ。適材適所を見つける才能もあって、 プロデューサとディレクタにはその才能が必要。

本来的には無くても何とかなる存在であるインタフェースに、人の人たる所以を見つけて ちょっと感動した。僕は美しい人為的な平面が大好きだ。だからインターネットに 強く惹かれるんだろう。