初心者が「構造構成主義とは何か」を読む ~その3~

前回までで、「判断中止」「還元」「関心相関性」といったキーワードは大体 分かってきた。今回は「記号論的還元」てのが中心。

ソシュール言語学

ソシュールとか聞いても「何それ、食えんの?」的な僕だが、なかなかおもしろい 人の様だ。学者ってのは分野に限らず言語を使っているんだから、これくらいのことは 考えているだろうと思うのだが、世の中そうでもないようだ。

まず、2 つだけ用語を覚える。「シニフィエ」と「シニフィアン」。シニフィエは「同一性」と いう意味で、言葉が指し示す内容みたいなもの。シニフィアンは「発音・表記」という意味で シニフィエを具体的に言い表す言葉そのもの。「犬」と「dog」ってのはシニフィエは 同じものだけどシニフィアンは異なる。

さて、ソシュールの思想は以下の 3 点がエッセンスの様だ。本に合わせて、以下で コトバというのは言葉の指す内容、すなわちシニフィエのこととする。

差異性

コトバは他のコトバとの「差異」から浮かび上がる「関係概念」

本でも挙げられている例として「ワンワン」がある。子どもが「ワンワン」という コトバを獲得するには、「こういうものが『ワンワン』だ」と親に説明されて 獲得するのではなく、「ワンワン」以外を「ワンワン」と呼んだときに、それは 「ニャンニャン」だよと指摘されることで逆に「ワンワン」を理解していく。 つまり、あるコトバは周りのコトバとの差異によって決まっているということ。

恣意性

原理的にコトバは「恣意的」(社会的)なものである

「ワンワン」の例で言えば、「ワンワン」としか教えない親の元で、子どもが いきなり犬を「dog」と呼ぶことはない様に、僕たちが獲得している言葉は 恣意的である。これを対応恣意性と言う様だ。さらに大事なのは、言葉による 分節化の方法も全くもって恣意的であり、これは分節恣意性と言う。例えば アニメをほとんど知らない人にとっては、「かがみん」も「つかさ」も全部まとめて 「アニメキャラ」と呼ぶかもしれないが、僕にとっては二人は全く違うものだし、 言葉としても区別する。さらにマニアな人なら、どのアニメータが描いたかに よって分類をするかもしれない。この様に、「純粋な『客観的分節』などできない」のだ。

とはいえ、みんなが好き勝手に命名しているわけではなく、そこは「関心相関的」に 決まっている。現象と名前には絶対的な関係が存在するのではなく、関心に相関して 恣意的な名づけがなされているということ。

蔽盲性

コトバが恣意的であるゆえに、結果として遮蔽され盲点となる

これは上記の様にコトバが恣意的であり差異的であることが、自然な状態の人間には 隠されてしまうということを言っている。普通の生活してれば、恣意性や差異性を 考えたことなんかないし、リンゴってのは僕らとは無関係にそこにあるんだから、 リンゴという言葉も外在的に存在すると思ってしまう。でも、実際はリンゴという 言葉は周りの人が「リンゴ」と呼んでいるからそう思っているだけであり、また リンゴという記号を獲得するためにはどうしてもリンゴというコトバを聞かなければならない。 「シニフィアンとシニフィエの絆が必然的なのは、それが恣意的(=非自然的)である 限りにおいて必然的」なのだ。言語というものを社会の中で習う他ない 人間にとって、選択肢が無いが故にその恣意性が自然と見えなくなってしまうということだ。

うーん、うまく説明できてないな><

科学論的還元

ここまでソシュールの言語を見てきたのは、「科学」という言葉の還元を 行いたかったから。「科学」も言葉である以上、上で見てきた特徴を備えている。 つまり「恣意的」であり「差異的」でしかなく、それらは「蔽盲」されているのである。

帰納主義的な「科学」

帰納とは、多くの事実を積み重ねることで、そこに共通する法則を発見していく 方法のこと。それに立脚して科学とは何ぞやというと、「客観的な事実の積み重ね」が 必要になってくる。

反証主義的な「科学」

反証とは再実験での再現の様なもの。反証主義的な人は、「追試ができること」が 科学の必要条件であり、追試によって真偽を確かめることができると言う。

世の中「科学」というとこの 2 つの立場が多いようで、それぞれ他方は「科学でない」と言う。 この場合、問題なのは「科学」という言葉がそもそも同じものを指していないことだ。 つまり、シニフィアンは「カガク」と同じであるが、シニフィエが違うのだ。 しかしながら、先ほど述べた「蔽盲性」によってそのことは普通は気づくことが できず、結果として不毛な罵倒の応酬になってしまうというのが、西條先生達の嘆いている ところなのだろう。

しかし、ソシュールの言語学をなぞってみれば、言語なんていうのもは恣意的だという ことが自然なものとなり、そうなれば、「どうやら相手の言ってる『科学』と 私の言ってる『科学』は違うものを指している」ということが、「科学」というコトバを 「判断中止」することで「還元」されてくる。ここにも現象学が出てくるのね^^

構造主義的科学論へ

ということで、ソシュール言語学というツールで「科学論的還元」が行えた。 これによって今使われている「科学」というコトバを相対化することができたが、 まだ「それだけ」であり、これではなんら建設的でない。相対化した 「科学」を包含するメタな意味での「科学」を考えてこそ意味があるというものだ。 てか、それを探してたんだよね。そして、それはどうやら次に続く池田清彦による 「構造主義的科学論」になる様だ。まだ今の段階では「構造主義的科学論」の中核は 登場していないのだが、実にワクワクしている。どのように捉えればメタな「科学」が 見えてくるのだろうか。楽しみだ。

西條先生の概説によると、「ソシュールのコトバの『恣意性』の原理を、そのまま『構造』の 恣意性へと援用した」とのことだが、まだ全く分からん orz。ま、これから読んでいけば 分かるんだろう。