「日本語が亡びるとき」から得られる議論のプラットフォーム

各所で話題となっている「日本語が亡びるとき」という本を読み終えました.まさか知らないなんて人は いないと思いますが,どうせいると思うので一応経緯説明します.

話題になった経緯

「ウェブ進化論」「ウェブ時代をゆく」などの著書で有名な梅田望夫先生が自身のブログで久々に 将棋以外のエントリを書いたのが以下のエントリ.

この本は今、すべての日本人が読むべき本だと思う。「すべての」と言えば言いすぎであれば、知的生産を志す人、あるいは勉学途上の中学生、高校生、大学生、大学院生(専門はいっさい問わない)、これから先言葉で何かを表現したいと考えている人、何にせよ教育に関わる人、子供を持つ親、そんな人たちは絶対に読むべきだと思う。願わくばこの本がベストセラーになって、日本人にとっての日本語と英語について、これから誰かが何かを語るときの「プラットフォーム」になってほしいと思う。

水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 – My Life Between Silicon Valley and Japan

これを受けて,梅田先生ファンの僕は速攻でAmazonで注文をして手に入れて読んだわけです.どうやらその後 Amazonには注文が殺到したらしく,11月20日時点で未だに売り切れ.書店にもあまり並んでいないという 状況になっています.

ウェブ上では様々な反応がすぐに出てきた様で,有名なところではdankogai氏もすぐにエントリを書いています.

日本語で何かを成しているものにとって、本書をひも解くことは納税に匹敵する義務である、と。

404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 – 書評 – 日本語が亡びるとき

ウェブ上では強い発言力を誇るこの2人がここまで「読め」という本となれば,普段そこまで本に手を出さない 人も読もうとしているのではないかと推測されます.僕自身,この本の反応に関しては全然調べてないですので 憶測ですが,普段危機意識持ててなかったり,本に読み慣れてなかったり,議論に慣れてなかったり, 自分の前提に暗黙に依拠しすぎてる人達が,この本をさっと読んで誤読というか,安直な感想とかを 書いちゃってるのじゃないかと思います.先に言いますが,著者の水村さんはあくまでも”作家”ですから そこまでうまく議論のベースを作れているとは思いません.なので,よく読み取るには少しばかり ガイドラインが必要かも知れません.

また,そもそも入手が困難になっていたり,梅田先生が以下の様にブチキレたりしているように どれだけ言っても本を読まずに自分の前提だけで議論をしようとする人がいる意味でも, 読む前のガイドラインがあってもいいのかも知れません.

本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。

Twitter / Mochio Umeda: はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコ …

というわけで,読書歴2年の落ちこぼれ理系大学院生が,この本を読んで素直に感じたことを なるべく簡単にまとめてみたいと思います.あくまで,ガイドラインのつもりですので,必ず 本書を読んで下さい.このエントリだけでは意味がありません.その点だけご注意を.

その前に:僕のバックグラウンド

この本はおそらく読み手のバックグラウンドによって,見え方が大きく変わります.そこで, 僕のバックグラウンドをまず明らかにしておくことで,以下での構造化がはっきりと分かる様に しておきます(構造構成主義的には「構造に至る軌跡」の開示と言います).

僕は大学では機械情報工学を学び,大学院も同じところにいますが,日本の 大学に辟易して,ドロップアウトして初めて読書をはじめました.なので,漱石などの近代文学も 村上春樹などの現代作家も,ライトノベルも殆ど読んでません.読んでいるのは,こういう ノンフィクションものばかりで,ある意味で本に対してフラットな位置にいると思います. どうも,本書を「近代文学マンセ」という内容だと思っている人がいるみたいですが, どれも知らない僕から見ればそんなことどうでもいい些細なことで,本書が鋭く深く突く その「議論のポイント」をはっきり明らかにすることが重要ではないかと思って,筆をとった 次第です.

ただのアマチュアですから,内容に間違いや前提の誤りなどはいくらでもあるでしょう. そんなことはわかっていますし,もし指摘して頂く方がいらっしゃればそれははありがたいですが, そんなことしている暇があったら,早く手に入れて本書を読んでもっと建設的な議論をすることに 力を振り向けて頂いた方がよいと思います.

というわけで,以下,本当に軽く・簡単に(?)まとめていきたいと思います.

「日本語が亡びるとき」まとめ

「当たり前」は全然当たり前じゃないということ

「人は地球上の様々なところで様々な条件のもとで様々な言葉で書いている」という当たり前すぎる 事実.だが,これはそんなに”当たり前”の事実なのだろうか.

僕たち,いわゆる”普通の”日本人にとって,「ものを書く」とは通常「日本語」という「自分たちの言葉」で書く ことを意味するし,書く内容は,小説であったり評論であったり論文であったり詩歌であったり日記であったり, 自由に書いているし,書けることが当たり前だと思っているし,その権利は当然あると信じている.

しかし,外の世界に目を向ければこんなの全然当たり前じゃない.たとえばウクライナでは, 歴史の紆余曲折から亡びかけていたウクライナ語という「自分たちの言葉」を必死で復活させたことで, なんとかウクライナ語で書く作家が生まれつつある.中国は未だに言論の自由は保証されておらず 自由な内容を書くことなどできない.

自分たちの言葉で文章を書きたいと思う作家達にとって,今,「英語の脅威」がやってきている. 英語という「普遍語」によって,「自分たちの言葉」は亡びてしまうのではないか. アフリカのボツワナから来ていた作家は「自分たちの言葉」ではない英語で書いていた. これはもはや19/20世紀の急速な西洋化の時点での状況の違いだけではなく,全世界的に 起こりうることなのではないか.「日本語が亡びるとき」が来るのではないか.

「現地語」は「普遍語」を翻訳する過程で「国語」へと変貌した

人類の歴史において「書き言葉」とは「話し言葉」を書き表したものではないという事実.これすらも 僕たちは忘れてしまっている.人間は殆どの時間を,書き言葉と話し言葉を別にしてきたのだ. 話し言葉としてその地域に土着している言語が「現地語」であり,読み書きをする言葉は,その近辺に 古くからある偉大な文明の言葉であり「普遍語」と呼ばれる.

たとえばラテン語は一時期ヨーロッパでは普遍語であったが,ラテン語で会話することはなかったのである. あくまで会話は英語やフランス語といった現地語でなされていた.そのため,現地語しか話せない一般人に とって,ラテン語の”図書館”に蓄積された叡智に触れることは不可能だったのである.事実,聖書はラテン語 のみが存在した時代が長く続いた.学問も同じように普遍語によって守られていたのである.

人類は殆どの時間を「普遍語」と「現地語」の中で暮らしてきた.いや,もっと言えば殆どの 人間は「現地語」だけで暮らしていたのである.しかし,現地語だけでは知の蓄積がしにくい. それは文字が無ければ当然口伝しかないし,文字があったとしても現地語には広域性がない. だが,それでは満足できない「叡智を求める人」がいつの時代もどんな場所にも存在する. 彼らは現地語の他に普遍語を読み書きできる「二重言語者」であり,叡智を「普遍語」で書き残す. 続く「叡智を求める人」はその「普遍語」を「読まれるべき言語」として捉え,「普遍語」の ”図書館”に出入りして,蓄積された叡智を手に入れる.

それが近代国家の成立によって様子が変わってくる.それはグーテンベルグの発明と資本主義の 普及に拠っているのだが,ともかく,普遍語であったラテン語で書かれた書物が少しずつ 現地語である英語やドイツ語,フランス語などに「翻訳」されていった.これが段々と蓄積していくと 現地語の”図書館”ができ,現地語が「読まれるべき言語」となっていくのである.

そうなったときに,学問はどうなったのであろうか.普遍語で学問していた時代は問題がない. どこに住んでいようといつの時代に生きていようと,普遍語さえ読み書きできれば学問はできるのである. それは普遍語の”図書館”という唯一の存在が担保していた.しかし,ヨーロッパにおいて段々と 現地語の”図書館”が増えてしまった.これでは学問ができなくなるのではないか.けれども ヨーロッパにおいてそれはあまり問題にならなかった.その理由は,その当時ヨーロッパの主要言語で あった「英語」「フランス語」「ドイツ語」がどれも似たような言語だったからである.

そして,そうやって普遍語を現地語に翻訳していく過程で,現地語は「国語」へと昇格していったのである. 現地語による”図書館”が充実してくることで,現地語は国語へと変貌したのである.そうして, 国語を普遍語に準ずる言葉へと高めていったことで,国語を使いさえすれば学問ができるという 状況が,徐々に形成されていった.しかし,忘れてはいけないのはヨーロッパの「叡智を求める人」は 多重言語者であったという事実だ.そして,英語・フランス語・ドイツ語の類似性はそれを圧倒的に 容易にしていたのである.

そして,こうやって国語が普遍語のような様相を呈することで,「文学」が生まれてくるのである. 国語の誕生以前は,普遍語によって読まれるべきモノが書かれていたため,気づかされなかったが, 書かれる「真理」には2種類が存在するのである.1つは何で書かれているかに拠らない「学問の真理」, もう1つが書かれた言語に依存する「文学の真理」である.

学問の真理は,自分たちの国語に翻訳されたモノを読んでも真理にたどり着くことができる. いわゆる自然科学を想像してみればよく分かるだろう.だからこそ,今の日本は小学校から大学院まで 日本語のみで教育が可能なのである.しかし一方で,どうしても原著を読まないと理解できない 真理も存在することも分かるだろう.卑近な例を出せば,日本語のダジャレを英語に翻訳したところで 通じるはずがない.そういった類の特異性をもったものとして,国民文学が誕生していったのである. 現地語が国語になることで,学問と文学,そして現地語としての機能に役割が分化していったということだ.

「日本語」の現状は全くの偶然に過ぎないということ

もちろん,文字の無かった時代から現地語としての日本語は存在した.それは単に話される言語であったのだろう. そこに中国から「漢字」が入ってきて,日本の「叡智を求める人」は「漢文」という普遍語の ”図書館”に出入りするようになる.

その後,漢文を現地語である日本語に翻訳する「漢文訓読」などの努力によって,現地語は書き言葉を 持つようになる.その過程で「平仮名」「片仮名」が成立し,「漢字仮名交じり文」も生まれていく. しかしながら,それはあくまで「現地語」でしかなかった.学問も公文書も「漢文」という「普遍語」で 書かれ続けたのである,なんと明治維新まで!

そんな状況で,黒船に始まる「西洋の脅威」がやってきたが,日本は西洋諸国の植民地となることが なかった.それは地理的な要因と印刷資本主義がかなり発達していたという,ただの偶然にすぎないのである. しかし,その偶然によって,日本は「西洋の書物=新しい時代の普遍語の書物」を現地語である日本語へと 翻訳する必要があった.それも大量に.普遍語を現地語に翻訳する過程によって現地語の”図書館”が充実し, 現地語は国語へと昇格していく.折しも西洋では国民国家,そして国語が成立していたころ.日本もそれに習って, 日本語を国語へと押し上げていったのである.

そして漱石などの二重言語者,つまり現地語の日本語と普遍語である3大言語のいずれかを 操る人たちは,翻訳を通じて自分たちの現地語を国語へと作り上げながら,日本文学を生み出していった. 彼らはお雇い外国人を追い出して,日本語を用いて大学で教えることを可能にした.

かつて普遍語であった漢文はもはや誰にも読まれることはなくなり,日本人は日本語=国語に 翻訳された言葉を使って西洋の時間を知ることになるのであり,同時に日本語しか知らない人でさえ 日本語で書き残すことが可能になったのである.さらに西洋諸国の古典でさえ,翻訳されてしまえば 同じ国語を使う日本人は読むことができたのである.その素地があったからこそ,日本文学は 「主要な文学」としての地位を築くことができたのである.

繰り返す様に,その間,西洋の植民地になることも大きな戦争もなく暮らしていられたという偶然の 産物であることは忘れてはならない.

日本語は明治維新以降「西洋・非西洋」という非対称性の中で生きてきた.それは,どんなにいいものでも 日本語で書いてしまったら,西洋に流れる時間の中に入ることはできないのに,西洋で書かれるものは どんどん入ってくるという非対称性である.英語が「普遍語」として台頭してきたことによって, 英語以外の言語は全て「英語・非英語」という非対称性の中に入ってしまった.英語で書く作家と そうでない作家の間には大きな非対称性が存在してしまう.

しかし,英語で書く者達にとって英語で書くことは”当たり前”のことであり,どうして英語で書くのかを 考える必要はないのである.しかし,僕ら日本語で書く者や,そして今やフランス語で書く人にとってさえ, どうしてこの言語で書くのかということは常に意識せざるを得ない.裏を返せば,それは英語で書く作家には 決して気づくことのできないことなのだ,と.

しかし,このような言い方もできる.

「日本文学のような主要な文学を書いているあなたとは比べられませんが・・・・・・」

そう,日本文学さえも.もっとマイナーな言語からすれば「主要な文学」なのである.このことすら, 僕たち日本人は暗黙に当然のことと思っている.日本の戦後教育は「平等主義」と言うことができる. それは,日本がそうであるように,世界各国はそれぞれの言語とそれぞれの文学を持っているのだと 信じ込ませる教育であった.僕たちは知らず知らずのうちにそのイデオロギーに飲まれているのである.

英語の世紀を生きる

さて,これまでの議論を通して改めて「英語の世紀」という現在を見つめ直してみる. 現在地球上の言語は「英語・非英語」で分類されようとしている.それはとりもなおさず, 英語のみが「普遍語」となったことを意味する.しかしながら,かつての普遍語と異なるのは それが「国語」としても使われているということだ.本書の中で,ベネディクト・アンダーソンが 引き合いに出されているが,彼は英語を母語とする人間であり,そうであるが故に以下の様な 発言をしている.

本当の意味での国際理解は,この種の異言語間のコミュニケーションによってもたらされます.英語ではだめなのです.

彼は英語が母語である故に,僕たちが常に意識させられている言語や時間の非対称性を意識することが できない.彼の中では英語は数ある国語のうちの一つに過ぎないという意識しかないのである.

しかし実際は違う.英語は同時に「普遍語」となってしまったのである.それはもう覆ることはない. それが「英語の世紀」なのである.そんな世紀の中で,非英語に属する「国語」ははかつての 「現地語」の役割に終始するしかないのであろうか.いや,むしろ「国語」としても使うことのできる 「英語」さえ使うことができれば,全て事足りてしまうのではないか,つまり他の言語は「亡びて」 しまうのではないか.

日本語で考えれば,日本語が国語たり得たのは「偶然」でしかなかった.偶然の大きな一因は 地理的な孤立性であったが,インターネットをはじめとして,今やそれは無くなったも同然だ. とすれば,わざわざ日本語を国語として固持せずとも,英語で書けばいいんじゃないか. そう考えるのは当たり前の発想だろう.

著者はそれでも,一回限りの人類史において希有な存在である日本語を守るべきだと考える. もちろん,いわゆる現地語としての日本語が生存する可能性は高いだろう.だが,求めるはそれではない. 「文学の真理」へとたどり着ける様な,高いレベルでの日本語である.

日本語を保護するために,英語を排除するという論はもはや時代遅れである.何度も主張するように すでに英語の世紀であり,英語は普遍語なのである.従って,日本人とはいえども英語を学ばなければならない. 問題は,全員が平等に話せる様になるべきかどうかである.

著者はそれを求めない.戦後教育のイデオロギーである「平等主義」に真っ向から立ち向かう形で, 一部の才能ある人間のみが「高度な英語」を身につければよい.これではあたかもかつての普遍語・現地語の 二重言語者が少数に限られていた時と似ている.しかし,あの長い時代と異なるのは,普遍語を学ぶことの 障壁が遙かに低いということだ.もしも必要だと感じれば誰にでも開かれている.それこそ本当の 平等なのではないか.

そして,それよりも大事なことがある.それは「日本語を教える」ことだ.今まで日本は日本語を軽視してきた. 国語の教科書は薄い.古典は読まない,それどころか本すら読まない.これでは「話されるべき言葉」としての 日本語は維持できても「書かれるべき言葉」「読まれるべき言葉」としての日本語が維持できるはずもない.

英語の世紀の今だからこそ,むしろ英語ではなく日本語を教えるべき.そうでなければ確実に日本語は 亡びる.日本語—2種類の表音文字と表意文字がまざりあう歴史上でも希有な言語,そんな言語が 亡びてしまうことは,人類にとって有益なことではないはずだ.しかし,その事実はおそらく日本人 以外が心の内から思うことはできないだろう.そうであればこそ,日本人から進んで日本語を 守らなくてどうしようか.そういう著者の思いがひしひしと伝わってくる.

僕の考え

というわけで,ここまでが本の内容を僕なりにまとめたものです.本の内容をそのままだったり, 僕の解釈を加えたりしてるので,これをもってこの本を評価するのはやめてください><

それはともかく,このような「議論のプラットフォーム」を提供してくれたことがこの本の すばらしいところです.自分たちが「当たり前」と思っていたことが,全然そんなことない. ここ数年,ずっと思っていたことだし,構造構成主義を知って大分よく見えるようになったつもり だったけど,まさか足下も足下,日本語という言葉,文学という概念,書き言葉と話言葉, そういうものすらこんなにも恣意的であり,近代に入ってからのことだったとは気づかなかった. 全くもって僕の怠慢だった.

この本のうまいところは,やっぱり著者が作家であるという点で,非常に読みやすい.リズムが 良くてすらすら読めるし,いい感じでリフレインしてくれるから内容も落とさない. まぁそれが冗長といえば冗長だし,流れを物語チックにするために多少順番が落ち着かない部分も あったかとは思うけど,まぁ僕にはこんなの書けませんね><

さて,内容についてですが,一番頭を打たれたのが「戦後教育=平等主義というイデオロギー」という 部分.僕が気に入らなくて仕方がない日本の教育をこれほどまでにうまく一言で言い当てている 表現はないでしょう.そう,平等主義なんだよなぁ.気持ち悪いくらいに.

だから,著者が言うように,英語を選ばれた人にだけ教えるのは賛成だな.もちろん,全員に 日常会話くらいは教えるべきだけど,表現なんて誰でもできるものじゃない.バイリンガルなんて 誰でもなれるはずないよ.

日本語が亡びていいのかどうか.こればっかりはまだ僕には結論は出せない.今僕には日本語しか 書く術がない.だから無くなるのは困る.書けなくなるという意味よりも,僕が書いたものが 将来読まれないという意味で困る.でも,だったら僕が英語で書けばいいだけのことだ. 実際,僕は英語を勉強したくてしょうがなくて,留学もしたいと思っている.

でも,言語というのはそういう表現の問題以上に,世界の認識装置として,個人に深く刻み込まれている. 日本語を母語とする人は「兄」と「弟」を明確に判別して考えるが,英語を母語とする人は区別なんてなくて どっちも「brother」だ.言語なんてものはそもそもが恣意的なんだから,100%移植なんかできるわけない. だから,僕が英語でモノを考えたり書くようになったとき,果たして今の僕と全く同じことが 考えられるのか,書けるのかと考えたら,明らかにNoだ.

そう考えると.僕はやっぱり日本語の思考法とか結構好きだと思う.こればっかりは生まれたときから それに親しんで生きてきたから好きなだけなのかもしれないけど,しょうがない.そして 日本語の思考法とか表現はやっぱり残っていって欲しいなぁと思う.英語に翻訳されたあかほりさとるとか 読みたくないでしょw

そう考えると,これも著者の言う通りで,日本語教育足りなさすぎです.日本人は日本人だから 生きてれば勝手に身につくなんて言う人がいるらしいけど,そんなのあり得ない.なんなのその 勝手な区切り方.どんだけ楽観してんの?バカにも程がある.別に僕はそこで漱石を読めとかは 思わないけど,やっぱり「読むべき言葉」として教育していかないと終わっちゃうよ.

ここでも変な平等主義を持ち出す人がいるかもしれないけど,誰でも読める訳じゃないし,誰でも 書ける訳じゃない.平等主義者はここで最低ランクに合わせようとするけど,それ意味ない. できる人がいたらそれを積極的に伸ばさないと,亡びる前に腐るよ.これは日本語に限らずなんでもそう. アニメだって,このまま放置したら確実に亡びるよ.僕はそれが嫌だからなんとかしたい.

というわけで,最後になりますが,この本の中で提起されている情報や問題点というものは. 梅田先生がおっしゃるように,これからの世紀の議論のプラットフォームとなっていくべきものです. 言語を使って何かをする人って,それほぼ全員でしょ,これ読んでないオトナってどうなの? と言いたくなります.別に著者の考え方に賛同しろなんて言ってません.僕も著者の主張の 全てに賛成なんかしません.でも,それも含めて「この本読め」なんですよ.それも分からずに, 読まなくても分かるとか,批判だけする人とか,逆に賞賛する人とか,それはあり得ないです. この本を読むという行為の第一目的は,あなたの前提を崩すということです.つまり, 自分の言語観を一度「判断中止」して,どうしてそうなったのか「還元」するという, 現象学的思考法をサポートしてくれる良書なのです.著者と全く同じ生活をしていて,全く 同じ経験をしたという人がいるならいざ知らず,そうでない人は読まないと何も分かりません.

読んだ上で,僕が押さえて欲しいなと思ったポイントは上に長々と書いた通りですが,あくまで 僕の構造です.読んだ人がそれぞれにこの本を咀嚼して,これから建設的な議論が展開されることを 祈ります.

そして,水村さんにはこのようなすばらしい本を提供して頂いたことに感謝いたします.