- 2008-10-21 (火) 23:56
- コラム

ここ数日,ゲーデルの不完全性定理についての本を2冊読んだ. 僕は,数理論理学とかさっぱりやったことないので,読んだもののその証明についてはほとんど 意味不明だった.だが,この2冊の本は証明そのものの解説よりも,不完全性定理がなぜ生まれてきたのかという 「歴史」について語ってくれていたので,逆によく理解できたと思う,純粋に定理の説明だけされたって 素人にわかるわけがない.それを,歴史という文脈から説明してくれたので,僕の中の理論とも 比較参照しながら読み進めることができた.
以下で,僕が得られたエッセンスをまとめていこう,間違っているかいないかは気にせず,自重せずにに 書いて行く.どうにもまずい点があればぜひ指摘して欲しいけど,そこまで関心がない方はどうぞ 無視してくださいませ.
カントール→ヒルベルト→ゲーデルという流れ
現代数学やってる人にはあたりまえなんだろうけど,この流れの中で,いったいこの時代に何が行われたのかを 把握することが,不完全性定理の意義を考える上で重要だ.
カントールの集合論と連続体仮説
カントールはご存知集合論の祖.集合論は高校数学ではほんの少ししか触れないのであまり一般周知が 低いと思うけど,現代数学は集合論でお話するのでできれば多くの人(僕も含めて)に知ってほしい.
カントールの集合論で有名なのが「1対1対応」というやつ.これを一般人にもわかる説明として, 僕は「秀吉の木の数え方」をよく出してくる.これは,秀吉がある山に何本の木が生えているのかを 数えるときに,野鳥の会みたいに目視で数えては数え漏れや重複が生じてしまうので,たくさんの たすきを準備して,「1本の木に1本のたすきを巻く」というルールで山の中のすべての木にたすきを 巻けば,後は何本巻いたかを数えればその本数がわかる,と考えたと言われている逸話.つまり, 「たすき←→木」の間に1対1の対応がついているから,たすきを数えることで木を数えることが できるというアイデアだ.
これを膨らませれば,たとえば「たすき」として「正の整数」をとってきて,「木」に「負の整数」を もってくれば,「1←→−1」,「2←→−2」,という様に対応させることで1対1の対応がつくことが わかる.これで「正の整数」と「負の整数」は「同じ数」あるということがわかった.
もちろん,こんなの有限の範囲で考えれば,別に対応なんかつけなくてもわかるだが,カントールの 集合論が相手にしたのは「無限」というもの.先の正の整数,負の整数にしても,それがいくつありますか, と聞かれれば答えられる人間はいません.でも,確かに正の整数と負の整数は同じ数あることは わかった.そこで,自然数という無限集合をもとにして,いろんなものの集合を考えていったのが カントールの集合論.たとえば,正の整数と正の偶数の個数は「同じ」.有限集合では どう考えたって,偶数の方が半分しかないはずなのに,無限ではこういうことがおこる.
こうやって考えていくと,有理数も正の整数と同じ個数ということになるのだが,無理数となると どうやっても1対1対応がつかず,無理数の数は正の整数などよりも多いということがわかった. 自然数(0以上の整数)の「個数」(とはいっても無限なのでいくつとは言えない)を「濃度」と 考えることができて,無理数の濃度は自然数の濃度よりも大きいと言い換えることができる. すると,自然数の濃度と無理数の濃度(言い換えれば実数の濃度)の中間の濃度が存在するのか というのが気になってくるが,これが「存在しない」と言ったのが「連続体仮説」というもので, カントールが終生かけて取り組んだ問題だ.
ヒルベルト計画というイデア
カントールが生み出した集合論を使って,様々な業績をあげたのがヒルベルトだ.ヒルベルトが やりたかったことは,一言で言えば「全知全能の原理の存在の証明」だった.論理学の体系を 完全に形式化してしまい,数学がその体系からどのように変態されるのかを記述し,そして形式化された 体系が無矛盾であることが示されれば,その体系を有限な世界でどのように使うかさえ見つければどんな 命題も正しいか間違っているかを示すことができることになる.つまり,その体系は全知全能という ことになる.このような体系を証明することが「ヒルベルト計画」と呼ばれたものだった.
自分で書いてて,これでいいのかよくわからんw ざっくり言えば,客観的に正しい存在を 示そうとしたということだと思う.それが示されれば,あとはその正しさに依拠すれば 世の中にあるあらゆることが正しいのか間違っているのか,人間の理性によって判断できるということだろう. つまり,神の存在証明みたいなものなのだろう.これは,自然科学に触れたことのあるものならば, 誰でも一度は抱く夢だろう.世の中のすべての正しさの中心にある「正しさの原理」を探し出せたなら, 「クオークが何種類あるか」を予想するのなんて,その原理を応用するだけなのだから.さらに 拡大解釈すれば例えば「性犯罪者を殺すべきか」を理性的に判断することだってできるのだから,裁判も簡単だ.
ヒルベルト計画の中心的なポイントは「無矛盾性」にあった.人間の目の前に存在する数学から エッセンスを抽出した体系が,無矛盾であることによって,理性的に様々な命題の正しさを 判断することができる.もしも矛盾が存在するならば,どんな結論でも導くことができてしまうから, 体系の無矛盾性は絶対に欠かせない条件だったのである.つまり,神の存在は神は矛盾しないということに 依っているという感じ.
ゲーデルの不完全性定理
そして,ゲーデルが「それは人間にはわからない」と言ってしまったのである.第1不完全性定理は 「体系の中に,それ自身もその否定も証明できない命題が必ず存在する」というもの,第2不完全性定理は 「体系が無矛盾であるならば,その無矛盾性はその体系の中では証明できない」というものだ. なぜそうなるのかは,ちらっと読んだがまだわからない.だが,これは正しいのだ.
不完全性定理の証明のポイント
証明のポイントは,パラドックスを逆手にとった観点と,論理式を自然数で表した「ゲーデル数」というアイデア. カントールの集合論以降,多くのパラドックスが見つかったが,どれもそのポイントは「自己言及」だった. 例えば「うそつきのパラドックス」.
「すべてのクレタ人はうそつきだ」とクレタ人のエピメニデスが言った
「」の中が正しいか間違っているかはこの文からは判断できない構造になっている.その理由は エピメニデスが自分について言及しているからだ.この様に自己言及する形のパラドックスからは 「それ自身もその否定も”真”でない」という結論が出てきてしまうのだが,これは見方をかえれば 「それ自身もその否定も”○○”でない」という命題が証明できていることになっている.この着想と カントールの集合論で出てくる対角線論法(1対1対応の付け方の1つで,数列をマトリックスに並べて 対角線に数えていく方法)を利用することで,「それ自身もその否定も”証明可能”でない」という 結論が導けるのである.
ゲーデル数とは,論理記号を数字と対応させることにより,自然数の素因数分解一意性・有限性を 利用して,論理式を自然数と1対1対応させることで,論理式を自然数と1対1対応させて数えることが 可能となった.
以上の2つを組み合わせれば,自然数で表した論理式に対してパラドックスの論理を応用させて 論理式は「それ自身もその否定も証明可能でない」という第1不完全性定理が導けることがなんとなく, ほんとになんとなくだけどわかった.そして,さらに突き詰めることで第2不完全性定理も 証明したのがゲーデルの仕事である.
ヒルベルト計画の終焉としての不完全性定理から学ぶこと
ニーチェは「神は死んだ」と言った.まさにそんな感覚.「わからないことが正しい」という現代思想的な 発想が,数学の世界でも起こっていた.ニーチェ以降,相対主義という「何が正しいかなんてわからないんだから 何でもありなんだ」という非常に悲観的というか非創造的な思想が生まれているが,僕はこれが嫌いだ. 数学も不完全性定理によって,このような道を辿る危機があった.しかし,それはゲーデル自身が自らの やり方で創造的な方向へと向けている.
つまり,”すべて”に対して通用する真理は存在しないことがわかったが,”ある問題”に対してこの体系を 発展させてその正しさを判断することに利用することは十分に可能だということ.そういう筋道で ゲーデルは先の連続体仮説の証明に挑んでいるし,結局成功している.
以上の歴史を見てきて,僕には僕の中で起こった変化そのものが凝縮している気がした.現代の青年は 素朴に「絶対的真理」の存在を信じがちだ,かつてヒルベルトがした様に.だが,どれだけ青年期に 夢をみたとしても,すでに歴史の上で「絶対的真理」の存在は「判別不能」であることが示されている. 哲学の世界ではニーチェだし,数学の世界ではゲーデルが.まだ勉強してないのであれだけど, 多分物理学の世界では不確定性原理とかCP対称性の破れとかがそれに相当するかもしれない.
そこで悲観して,「もうだめだ」と思ってしまうことが必然ではないということを僕は学ばねばならない. もしも「絶対的真理」の存在が示されてしまった世界があったならば,僕たちはただただその真理さえ 学べば,理性的にすべての結論を下すことができるが,それは人間的な世界ではないだろう.ノイマン型の コンピュータの中の世界はこんな世界なのかもしれない.だが,僕たちはリアルなこの世界に生きていて, そこは絶対的真理があるかないかなんてわからない世界なんだ.むしろ,そんな存在どうでもいい話で, 今目の前に存在するモノをよりうまく扱える構造を探していけばいいじゃないか.それはとても クリエイティブな作業だし,いつまでも終わることのない,ワクワクする世界.もちろん,終わりがない 苦しみもあるだろうけど.終わってしまった苦しみよりはマシじゃないだろうか.ヒルベルト計画で 夢の世界を描いていたヒルベルトがゲーデルの論文を理解した時の落胆は,僕なんかには計り知れないものが あるだろう.それに比べれば,終わりがないことがなんと楽しいことか.
ま,構造構成主義でだいたいまとまっていた僕の考えを裏付けてくれる形になった,不完全性定理の お勉強でした.結局,現代の考え方は実は見え方が違うだけで,全部同じ.逆に言うと,ここにまで 達していない分野があるのだとすれば,早急に「神は死んだ」と宣言できるまでに研究した方がいいのじゃ ないだろうかと思ったりする.で,教育の分野が一番それが甘い気がするので,そこにコミットしようと しているのが僕だったりする.一度神を殺して,次の時代の創造性へと飛躍させる.それができれば 僕の人生としては満足なのかも知れない.迷惑かもしれないけど,もう哲学や数学は既に次のステップに 入っているのだから,足並みはそろえた方がいいんじゃないかと思う.どうなんだろうね.
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Comments:1
- 某173 09-02-21 (土) 16:18
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初めまして。拝読いたしましたが、ためになる記事だと思いました。不完全性定理は、数学の中で最も文学的なものではないかと思います。 私のブログでは、理数系の話題から政治まで取り扱っていますので、よろしくお願いします。
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