「好きを貫く」ための受動意識仮説

迷う迷わない、思う思わない。人って何?俺って誰?

とても久しぶりに筆をとることにした。あまり長くならないように注意したい。

今は、就職活動中ということになる。といっても、やってることはエントリシートを 書く作業。研究を放棄している状態なので、それ以外やることないから順調に進むかと 言えば、そうでもない。だから、色々なことをやりながら就職活動をしてる人を 見ると、惨めな思いになる。

最近、「受動意識仮説」というものを知って、色々なことを思考実験している。 受動意識仮説とは、物的一元論の考え方で、脳の神経が色々と発火するなかで、 なんとなくぼやっと浮かんでくるものが意識で、特にどこかの部分や誰かが意識を作っているわけではない。 僕らが感じる「人間らしさ=クオリア?」の様なものは、全て「幻想」。そう考えると 上手く説明がつくというもの。

自分はダメな人間なんだということも幻想という思い込み。ダメって何なのかって考えを 突き詰めると、きっと自分が何か勝手に思い込んでいる。そこには、例えばあれで 失敗したとか、こういう時にどうしようもない答えを返してしまったという事実の 集合体しかなくて、その総体を勝手に「ダメ」と決めている。ただし、決めているのは 「僕」ではなくて、脳みその中でそういう感じがなんとなく強くなったから、そう思っているだけ。

誰もが思っている思いは、所詮物理的な神経の発火パターンをそう決め付けているだけで、 しかも決め付けているのは自分じゃないから自分に責任はない。そう考えると、福岡さんの 「生物はガスみたいなもの」ってのも納得がいく。この世界にある原子・分子のうち、 たまたまこの一瞬に「僕」という形に集まっているだけの存在が「僕」、だからその意識なんていうのも、 たまたまそこに集まった原子・分子が発火した結果でしかない。ある意味、決定論だけど、弱い決定論。

多分、これは真実なんだと思う。なのに、なのにどうしてこんなに幻想から逃れられないのか。 最近囚われる幻想は誰を見たって、自分よりも凄いとしか思えないし、かと思えば、 自分以外はクズだとしか思えない。そんなの全部幻想で、自分はなんとなく自分でしかないんだから、 できることとできないことを決め付ける必要はないのに、どうしてもその呪縛に囚われる。理解することと 納得することは違うということか。

自分が何かやろうと思ったところで、世の中見回せばはるか上の存在はゴロゴロいる。だったら、 自分がやるよりそういう優れた人にやってもらった方がいいに決まってる。そう思うと、もう 何もすることはない。ただただ、脳の中の小人の気まぐれに従って、受動的に生きるのが 一番幸せだろう。人に言われたままに働いて、嫌になったらやめて。だって、意識は受動的なのだから。 でも、それは嫌だ。

もっとポジティブに生きたい。きっと「好きを貫く」っていうこと。受動的な意識であったとしても、 それが思い込みであったとしても、「比較優位」で好きなことをやればいいと思う。 「比較優位」っていう発想は、弱者が生きていくには重要だと思う。人は一瞬一瞬の物質の 集まりだから、たまたま優れた物質が優れた集まり方をする人はいつも優れている一方で、 その逆もある。弱者は強者にあながうことは出来ないのは、自然界の常。下賤な話に持っていけば、 勉強ができるというだけで出世して、着服してようがセクハラしてようが、力を持ってる人間は いくらでもいる。特に言葉という一見フェアに見えて、なぜか汎用的な問題解決法と見られている ツールが強い人間は、それ以外に何の力が無くてものし上がっていくのが、現代という時代。 きっと弱者の多くは言葉で負けている。だから、研究だったり、まじめさだったり、言葉以外の ツールで言葉が強い人間に勝つしかない。でも、中には言葉+その他のツールまで身に着けて いる人がいて、そんな人に勝てるわけがない。

でも、もう勝負はやめろと自分に言い聞かせる。勝ち負けって基準はなんなんだ、と思えば きっと幻想だ。自分の中の幻想。だから他人から見れば、なんら意味を成さない発火パターン。 ここに呪縛があるんだと思う。それを解き放つ術として「比較優位」は重要だと思うわけ。 僕はAよりBが好きなんだと発火しているんだったら、それに従えばいい。他人と比べて一番 いい部分こそ重要なんてルール、誰が決めたんだと、就職活動してれば自然と思う。

情報の発信量と伝達スピードの劇的増加により、自分だけのモノなんてなくなった。昔は ムラだったからあったかも知れないが、グローバルで見ればそんなのありえない。60 億も いればオンリーワンの人間なんて確率的にほぼゼロ。「世界にひとつだけの花」は 物質的にはそうだけど、意識レベルではありえない。だったら、そんなことに価値を見出すのは やめる。比較優位で出来ること、もっと言えば「やりたいこと」をやればいいじゃないか。 その結果、やっぱり違ったということなら、また新たな好きでやり直せばいい。そのカバーを 出来るくらいの福祉が国や地域の仕事だろう。一度の失敗でものすごいリスクを負わされる 旧世紀のやり方じゃ、もう人間は進化しないと僕は思った。

結局、梅田先生が主張する「好きを貫け」ってこういうことなんだと僕なりに解釈した。 好きなことだけやってりゃいいって、字面だけを追ってもダメ。それでは旧世紀の人たちを 説得できない。やっと僕なりに「好きを貫く」理由が説明できた感じだ。そもそも、 「好きを貫け」っていうことそのものが「好き」で、脳の中で勝手に意識として浮かんでくるんだから 説明なんか出来ないよと思ってたけど、「比較優位」って言葉でなんとなく説明できそう。 まだ完全じゃないけど。

僕は昔から、何事にも理屈をつけようとしてきた。東大を選んだ時もホントはどこでもよかったけど 「東京に行きたい」という理屈を付けたし、柔道を続けたことにも理屈を付けてきた。でもさ、 結局全部、受動意識であり、幻想なんだよ。そこに理屈は無くて、たまたまそういうパターンが 発火しただけのことであり、原因を求めるなら唯一、その瞬間に集まった物質の種類と、その 結びつき方・関係性という物的な部分にのみ可能である。でも、そんなの僕らには何の 理由にもならない以上、そこには本質的には理由は無い。いつも理由は後付けなんだ。 それを最近やっと理解した。自分がいつも何かのルールに従って、演繹的に結論を導いて 言動してるつもりだったけど、実は逆。言動や考えはいつも弱い偶発性を持っていて、 その総体として帰納的にルールを見つけているだけだということ。ほかの人は知らないけど、 多分自分はそう。だから、どうも今までの自分が窮屈だった。

「好き」に理由はない、なんてのは恋愛小説なんかでは使い古されたフレーズかも知れないけど、 今の僕にはとても新鮮に感じられる。理由は無い、だって幻想だから。夢の内容はいつも不思議な ものだけど、そこにも理由はなくて、たまたま記憶しているものの中から引っ張りだされてるだけ。 そして、それは覚醒時の意識についても実は同じこと。これが好きだ、と思うことに物的な理由以外の 理由は存在しない。

だったらその感情に素直に従えばいい。理由が必要というのなら、帰納的に後から考えればいい。 エントリシートはそういう風に書いている。最初から好きっていう結果は決まっているけど、 それを言語に落としこまなきゃいけないから、好きって発火してる神経をもっと活性化させることで、 何か理由になる部分が思い浮かんでくるように、脳みそを回転させている。だから、うまく 書けるときはさーっと書けるし、思い浮かばない時は全然ダメ。でも、結論はもう出てるんだよね。

この辺考えてると、深澤直人氏の「デザインとは線を引くこと」につながってきた。好きっていう 結論は決まってて、その理屈付けが「デザイン」。だから、エイ!っと線を引いて理屈付けをしてやると 「そうそう、この理由なんだよ」みたいな説明ができることがある。今やっている作業は 自分の「好き」というメタな機能に対して、明確な理由という「線引き」をするデザイン作業。 だから、線を引いてみないといいデザインかどうかなんてわからない。

今日はこんなところで。頭をフリーにしてデザインしようとしてるけど、そう上手くはいかない、 まぁそんなところ。今日中に一枚仕上げないといけない。もちろんやりたい仕事とかはぼんやりと だけどはっきりしている。あとはそれを言語化するだけ。アインシュタインが「理論は頭にあるけど 言語化するのに苦労している」って感じ。どんな能力がある人よりも、この作業を難なくやれる人は 尊敬に値する。多分、最近目にする言葉(本、ブログ、Twitter など)の著者はおそらくそういう人ばかり。 そういうアンテナを張っている。アインシュタインなんかより、こういう人になりたい。ただ、 こういう人たちは言語化の先に行動化できるからもっとすごい。僕にはまだ無理。まずは言語化から。

いつもどおり、推敲ほぼゼロ、上から流して書いていく文章。こういうスタイルも「好き」なんだから しょうがない。言葉ってのは読んでく順番で生み出さないと納得できない。例外は「タイトル」だけね。 これは全部書いてから、その結果を踏まえて発生させる。でないと、最初の思いと結論がズレることが よくあるのでw。

この文章を読んで頂いた人で、共感できるって人がいれば幸いです。でも僕は一人でもこれをやる。 それが「好き」だから・・・