インフラに制約されるコンテンツ

自分たちは自由な発想で,ゼロからクリエイションしているつもりかも知れないけど決してそんなことはない. コンテンツを作るということは,必ずその時代のインフラに依拠せざるを得ず,それは結局 全く自由な発想などできていないということになる.人間の創造力なんてそんなもの.だから楽しい.

ウェブサイトに「創造性」はあるのか?

以前 mixi のコミュでウェブ屋さんが著作権でもめていた.クライアントから発注されてサイトの リニューアルをしたのだが,以前の画像やソースを使ってくれとのクライアントの指示に従って 制作したところ,リニューアル前のサイトを制作したウェブ屋さんから「それは我々の著作権の 侵害だ」と指摘されたというもの.

このスレでは認識論のズレ(言葉の定義のズレ)なんかでぐちゃぐちゃもめていたりもしたけど,それは 今回は置いておくし,別にこの結論がどうだったかということは今の興味の対象じゃないので 突っ込みはしない.なぜこの例を出したかというと,議論の中で 2 種類の考えがあってそれを 説明したかったから.

極端に書いてしまえば,1 つは,ウェブサイトのデザインについて制作者に著作権があり,指摘をした ウェブ屋は至極まっとうだという意見.もう 1 つは,制作者には著作権なぞ認められないのであり お門違いな指摘だという意見.

まず著作権法の立場からいけば,ウェブのデザインに対して,著作権を認める要件である「創造性」が 認められることは少ないようだ.そもそもこの場合クライアントからの受注であり,制作会社がゼロから 作り上げたものではない.だから,個々の画像や文章素材について制作会社が著作権を持つことは 考えにくい.また,ウェブサイトの構成なんてどこも似たようなものであり,それは機能性に注力してるから. だから,サイトの構造(コンテナの配置であったりページ遷移など)について著作性は認められにくい.

冷静に考えれば後者の意見がどうやらまっとうな様だ.だが,それを丁寧に説明しても前者の意見の 人は理解できないようだった.まるで異世界の生物と対話するかの様な感じになっていた. その理由は「デザインについて創造性を認めないとか言われると自分達のアイデンティティが無くなる」 という恐れからだと思われる.

彼らは自分が作ったサイトデザインに関して,他人とは違うものであり,相当の時間と才能をかけて 練り上げて作ったのであるから,自分が自分の創造力で作ったものだという前提を崩すつもりは なさそうだった.

このエントリで注目したいのは,では彼らが信ずる「創造力」とはなんぞやということ.

過去の模倣にすぎない「創造性」

古来より人は様々なものを「創造」してきた.洞窟の壁に絵を描いてきたし神話を作り口承してきた. 紙ができてからはそれらをポータブルな形で記録できる様になり写本などによって時空を超えて の伝達が容易になった.活版印刷や版画では複製が可能となり一つの作品が劣化せずに伝達される様になった. 写真やレコードの登場で視覚や音情報までもが時空を超えた.そして,ビデオによって写真は 動きまでも伝えられるようになった.コンピュータの登場によりそれら全てはデジタル情報に 統一され,より自由度の高い統合がなされる様になり,インターネットの登場によって伝送路は 史上最大規模に到達した.

それぞれの時代にそれぞれの「メディア」で様々な「創造」がなされてきたのだと思う.だがそれらは 全て「ゼロ」からの創造だったのだろうか?

詩人のゲーテは言っている.「我々は過去の遺産を刈り取るだけだ」と.一般人の感覚からすれば, 「詩」というメディアは文字情報を用いた作品の中では最も「創造性」にあふれていそうなものだが, その詩人が,自分の作品は過去の人達が生み出したものを真似ているに過ぎないと言っている. 確か,モーツァルトも同じ様なことを言っていた.

おおよそ現代人からすれば偉大な「創造家」と呼ばれそうな二人が,自身の創造性をある意味で否定している. これはどうしてなのか.現時点での僕の答えとしては,「作品はインフラに依存しているから」.

例えば詩歌,特に定型詩は分かりやすい.決まりきった一定の形式に則って言葉を紡ぐこのメディアに おいて,過去の作品を無視しての創造はありえない.ある作品を想起させて相手の想像を膨らませることが できる.連歌などが存在するというのも,そこに「模倣による創造」を感じているからだと思う. 自由詩にしても,「自由詩」という形が存在するわけである.文字を詩集に載せて発表するとか, メロディをつけるとか,おおよそ何かしらの伝送方法=メディアに依存して作られている.

全く自由に作られる詩歌は「思考」と呼ばれ,伝送を考えていない.他人に伝えようとした瞬間に 何かのメディアに依存した形に整えざるを得ず,その時点で同じ方式に則っている過去の作品を 必ずリファーする.なぜメディアに依存せざるを得ないかと言えば,メディアはインフラという 技術や制度によって伝送路が確保されているからだ.(多分,メディアとかインフラという言葉を使うのは まずくて,どちらも認識論のズレを生みそう.ただ,上手い言葉が見つかっていないのでしょうがないから 使うけど,きれいに使い分けられていない.)

音楽にしても,絵画にしても,写真にしても,映像にしても,そしてウェブサイトにしても, この呪縛からは逃れられない.既存の伝送路を活用した時点で過去の作品の影響を受けざるを得ない. そうであるとすれば,それは「ゼロ」からの創造ではない.これを極論すれば,ゲーテの言葉に なるのだと思う.

インフラに制約されるコンテンツ

つまり,伝送路というインフラの構造によって,そこを流れるコンテンツというのは「制約」を 受けている.他人に伝えようとするときには必ず制約を受けるのだ.それは会話でもそうだし電話であっても そうだ.完全に自由な伝達など存在しない.

そういう姿勢に立つと,近年の伝送路の複雑化と拡大には目を見張るものがある.歴史と数字に疎いので 誰かフォローして欲しいけど,紙の発明から活版印刷までにかかった時間に比すれば, コンピュータの発明からインターネット接続の定額化までにかかった時間がどれだけ短いかは 僕にでも理解できる.

インターネットにしてもテレビにしても,その中での伝送路の変化によって表現そのものが変化したことも 注目すべきである.

テレビはその昔は街頭テレビであった.その時代には力道山の様に大衆が集まって見られるものが 流れていた.それが一家に 1 台になると家族が集まって見られるものとして,バラエティや ドラマが隆盛してきた.最近は 1 人 1 台になってきているが,まだそれに合わせられておらず, 未だに一家に 1 台というインフラ時代の影を引きずっているから,最近のテレビの評判が悪いのも うなずける.

ネットにしたって,僕が中学生の頃は 56kbps が主流で,接続料金も従量制だった.うちは ISDN で テレホは使ってなかったので,料金の 1 度数単位でどれだけ効率よく DL できるかをチューニングするのが 重要だった.つなぎっぱなしなんかできるはずもなく,DL の計画を練ってから接続しては DL し, 時間を計測しておいて度数が上がる直前で切断する,というのを繰り返していた.こんな時代に Ajax なんか 生まれる訳がない.ブロードバンドになり常時接続が当たり前になってからネットに入ってきた人には 想像もできないだろうが,ネットだって着実に変化を重ねている.

パイオニアの創造性

こうして考えていくと,「パイオニア」の偉大さがよく分かると思う.僕たちはきっと全員が 「最初に言葉をしゃべったサル」を模倣して喋っているし,「最初に地面に絵を描いたサル」を 模倣して絵を描いている.まぁさすがにこれは極端な例にしても,オーケストラなら偉大なのは 作曲家でも指揮者でも演奏家でもなくて,最初にヴァイオリンなんてものを作った人なんだと思う. さらに遡ればその人も何がしかの過去の楽器に影響をうけていることを考えれば,個々人の創造力なんかより, 「人間」という種全体の創造力という視点で物事見たほうがいい気がしている.

ウェブサイトの話にもどれば,最初に HTML 考えた人とか,Apache みたいな WEB サーバ考えた人とかの 影響は計り知れないし,そのインフラの元で最初に「ウェブページ」を作った人達を模倣してない ウェブデザイナはいない.

もちろん程度の問題もあって,Flash 考えた人とか CGI 考えた人とか大小様々な「パイオニア」が いる.多分,本当の創造力という点で言えばクリエイタとはパイオニアのことであると思う. 芥川賞とかとる偉大な作家の創造力なんかより,ニコニコ動画で最初にコメント職人やった人とか, AA を最初に思いついた人の創造力の方が僕は創造性を感じる.作家はもはや固定されたメディア・インフラの 上で何かやろうとしているわけであり,その長い積み重ねを真似ているに過ぎない.AA やコメント職人は 積み重ねがほとんどないメディア・インフラを目の前にして,自分ができる最大限の創造力を 発揮していると思う.もはや向いている方向が 180 度違う.

別に,できあがったメディア・インフラ上での創作を否定しているわけではなく,むしろそういう人が いるからこそ,パイオニアも存在できる.誰も使ってくれないインフラ作るむなしさはここにある. アニメやゲームなんかは,歴史浅いのに自分たちで自分たちの形を規定してしまっていて, その中で創作を繰り返してるからネタが底をついている.とは言え,僕は作り出されるアニメーションは 大好きでこれからも見続けていくだろう.なぜなら,僕にはこの作られたインフラ上で創造する力が無いから. 隣の庭じゃないけど,人間,自分が持っていない才能には永遠に憧れ続けるしかないのである.

ただ,ネタが尽きる問題点の解決には,必然的にメディア・インフラの変化が必要なのである. 一度インフラが出来た時点で,実はそのインフラの上で表現されるものは全て決まっていると 言っても過言ではない.後世の人はそのインフラの可能性を発見していくしかできない. まるで,仏師が木の中に存在する仏像を掘り出すかの様にして….