二項対立に属さない人への二項対立への関わり方

Twitterで@pumpkincookieさんとお話をしていて, タイトルの内容についてエントリを書こうということになりました.勢いで書いたので支離滅裂だと 思いますが,それなりに今思ってることを書けたとは思います. いくらでもつっこんであげて下さい.

二項対立はどうして起こりうるのか

二項対立の対策に入る前に,まずは二項対立というものの分析から 始めたいと思います.そこでまず二元論というものについて お話をしていきましょう.ここで言う二元論とは,ある対象を 「2種類」に分けて考えるやり方のことです.例えばよくあるのは 「人間は○○と△△という2つに分類できる」といった類の話が それです.ここでもこの分類を取り上げます.つまり,人間を 「2つに分ける」やり方についてです.

二元論は最もシンプルなモデル化手法

人間を2種類に分類して論じる手法はよく用いられます.ある授業で 東大の先生が言っていましたが,東大生をはじめ,賢しい人達は よく二元論的な物言いをします.それは何故かというと, 二元論の方が話しが単純になり,理論武装で攻撃しやすいからです.

僕は現在は構造構成主義的な方法論的多元論,つまるところ, 「人間なんてみんな違うんだ」という立場を取っていますので, 人間が”たった2つに分けられる”という時点ですでに突っ込みたい ところです.特に自然科学などの科学を学んできた学のある人達に とって,物事を単純化して扱いやすくするのは常套手段ですので, それを人間に対しても適応したいと言うのは気持ちとしてはわかります. 例えば,物理などでよく使う「モデル化」なんていうのは典型で, 実世界の法則は,たとえニュートン方程式で扱うにしても, 摩擦や抵抗などあまりにも複雑な要素が絡みすぎるので, これから考察すること・実現したいことにそれほど”関係ないと 思われる”ものはモデルに組み込まないという単純化をよく 行います.高校物理なんかをやられた方はよく分かると思います.

でも,そうやってシンプルにすることでそぎ落としてきたものが あったわけです.特に,「科学」と呼ばれるものについては, 基本的に数量化して扱わざるを得ないため,数量化できないものは 扱うことができなかった.その辺が,いわゆる近代科学の問題点だろうと 僕は思っているのですが,それでも慣れ親しんだ手法だから, どうしても勢いいろんな所に適応してしまうわけです.その端的な 例が「人間は2つに分けられる」になります.

さて,なぜ3つでも4つでもなく,「2つ」に分けるのが常套なのでしょうか. それは単純に言って「一番シンプル」だからです.1つでは分類にならない ので,それより一段階だけ複雑になるだけの2つを使うのが自然でしょう. なぜならシンプルに考えることが重要なのですから.

二元論から導かれる「軸」の存在

しかし,2つに分類する大きな利点は別のところにあります. それは「一次元の軸を導入できる」ということです.例えば, 「人間は頭がいい人と悪い人に分類できる」と言えば,そこには 暗黙的に「頭の良さ」という一次元の評価軸を導入していることになります. そうすることで,ある人間がいたときにそれを2つの分類のどちらに 入れるべきかは,「頭の良さ」という評価さえしてあげればよいことに なります.このシンプルさも重要で,どんなサンプルに対しても 分類を行えることになります.

これが二元論の利点になります.とても便利な道具なので最初にも 言ったようによく用いられますね.それは必ず「軸」とセットなので 様々な軸を考えてみれば分かります.「かっこよさ」「年収」 「オタク度」などなど.軸には客観的に数値化できるもの(年収など)と そうでもないもの(かっこよさなど)があることにも注意が必要です. ちなみに,こうやって2つに分けることが,ここで言う二元論ですw

「軸」が導くその「向き=解釈」

ですが,世の中便利なだけの道具なんてありません.必ず不便な点や 問題点があるものです.二元論について言えば,必ず引き起こされるのが タイトルにもある「二項対立」になります.

先ほど,二元論は軸を導入することだと言いましたが,軸と言うのは 必ず「向き」を持ってしまいます.サンプルを軸の上にプロットするために 必ず「数値」を持たざるを得ないからですね.すると何がおこるでしょう. そこにはどうしても「優劣」を持ち込んでしまいがちになります. 端的なのが「学力」とか「頭の良さ」という奴でしょう. これらは例えばテストの点数として明に数値として現れてきます. そうすると,「何点以上なら頭のいい人,それ以下は悪い人」みたいに 捉えてしまいがちです.点数の高い人が「優れ」ていて,低い人は 「劣っ」ている.こういう流れになるのが素朴な人間というものです.

学力は単なる例で,二元論=軸による評価は必ず優劣を生みます. そうなると,優れている側の人間は気持ちがよいものですし, 劣っている側はいい気持ちにはなりません.そこで,違う評価軸= 新たな評価軸を持ち出してきます.その軸で考えると,優劣が 逆転するかも知れません.例えば「異性にモテる」という軸だったら 「学力」という軸では敵わないあいつにも楽勝だ,みたいな. 人間,自己防衛本能がありますから,当然の考えだと思います. たまに,モテモテで成績もいい奴がいると嫉みの対象になるのも 至極当然の話でしょう.

二項対立とは,「軸」の「解釈」が真反対の状態

新しい評価をするときに,そのの評価軸を真反対の向きにする 評価を始めると,特に「二項対立」と呼ばれるどうしようもない 状況に陥ります.例えば「自己中でない程度」という軸で評価すると, 値が低い方(Aグループ)は「自己中でわがまま」になり,高い方(Bグループ)は 「協調的で社会性がある」といった優劣がつきます.しかし,その軸を 反対向きに評価すると「個性豊かに自由に生きている程度」という軸になり, 今度はAの方が「自分のやりたいことを自由にやっている」という感じに 高得点であり,Bは「個性を押し込めて不自由」といった低い評価に なります.あまり良い例ではありませんが,このように”同じ”軸でも 実は両方向で考えることができてしまうことが多いのです.

そうすると,Aは「自由軸」を主張して自分たちの方が優れていると言い, 一方でBは「自己中軸」を持ち出して自分たちの方が良いと主張できて しまうことになります.これが「二項対立」と呼ばれる構図ではないかと 僕は考えています.いろんな軸についてこういった構造を考えてみると 確かに「二項対立」になっているという分析ができるのではないかと 思います.

二項対立の問題点は「信念対立」

さて,二項対立はあまりよろしい状況ではありません.そのまま続ければ ずっと争い続けることになります.それは過去の戦争の歴史などを 振り返ると分かるかと思います.どちらも自分たちなりの「正義」を 主張してはいるのですが,それは実は同じ軸の解釈の違いであったりします. しかし,解釈の違いというのは素朴には解決不能であったということを 歴史は示していますし,きっと皆さん実感としてもお持ちの方が多いと 思います.

なぜ解決が難しいかと言うと,先ほど述べたように「信じている解釈」が 異なるからです.別の言い方をすれば「信念」がそもそも違うのですから, どんな理論をその中で組み立てたって,相手からすれば前提が違うので 理解不能になるに決まっています.つまり,二項対立の本質は 「信念対立」であると言い換えることもできます.

二項対立に対する僕なりの考え方

実は,僕が最近はまっている構造構成主義とは,まさにこの「信念対立の克服」を テーマとしたものなのです.そこで,以下では構造構成主義を踏まえながら 僕なりの解決策というか,考え方を述べていきたいと思います.

「正しさ」とは何なのか ~プラトニズムより~

まず,どうしてこのような「信念の対立」が起こってしまうのでしょうか. それは,「正しい解釈」が存在すると双方が信じ込んでしまっているからです 実は双方の「正しい」という言葉は同じ表記ですが,違うものを 指しています.なのに,それを知らずに,もしくは知っていてもわざと無視して 議論をすすめるから,どうやっても食い違ってしまう.

このように客観的に「正しい」ものが存在するというのは,ギリシャの哲学者 プラトンに端を発しています.プラトンによってギリシャ以降西洋の思想は すべてこのような「正しい」ものを仮定して,それにより近づく方法を 探るという方向性がつけられました.「正しい」ものは時代によって,「神」 であったり「科学の法則」であったりしましたが,基本的な構造はニーチェの 登場まで変化がありませんでした.

西洋によって近代化された日本も例外ではありません.日本は古来は八百万の神と いったように,多神教であったからそれほどプラトニックでなかったと よく言われますが,いろんな神様がいてもそれらのカテゴリとしての「神」を 信じていたんじゃないかと僕は思うので,むしろプラトン的考え方は 入りやすい土壌だったんじゃないかと思います.いずれにせよ,我々も 西洋の薫陶をうけていて,プラトニズムに知らず知らずとはまっているのだと思います.

プラトニズムの問題は,あくまで僕が思うにですが,多元主義を受け入れられない ということにあります.プラトンの考えでは絶対的・客観的真理とは,個々人からは 外在しており,単一のものであると考えられています.そのような前提をおく ことによって,例えば近代科学は劇的な発達を遂げてきました.それは みんなのベクトルを「科学の真理」というひとつの方向へ無理やり向けることに 成功したからです.能力のある人がみんな同じベクトルを向けばそりゃあ 発展するでしょう.ですが,その途中で切り捨てられていった人もいるはずです. だって,今まで信じていたものが違うという説を出されても,困るだけなので, 否定せざるを得ませんから.そうやって,異端というものがたくさん 切り捨てられた結果の今の科学があるのでしょうし,過去のキリスト教があるの でしょう.

プラトニズムの前提は「解釈」の一元性

しかしながら,そうやってきれいに清潔に作ってきたはずなのに,結局対立が 起こっています.例えば,基礎と臨床.基礎は理論を大切にするけど, 臨床は事例が大事.どちらも「正しい」を追求した結果,結局相手の言ってる ことは役に立たないから自分たちが正しいという,なんともお粗末な状態に 行き着いてしまう.たった一つ正しいものがあると,みんなが信じた結果, 必ずみんな違うものを正しいと主張してしまう.これがプラトニズムの行き着く ところだったのかなと思っています.

その理由は,前にも述べたように「軸」が存在するからです.軸があるところ, 必ず解釈がついてまわる.歴史を眺めれば,軸を強制することはできても, 解釈を強制するのは難しいようです.そうすると必ず二項対立になってしまう という次第です.もしも解釈も含めて統一することができたならば, きっとプラトンのいう理想へと近づくことはできたのでしょうが,実際は 違いました.

軸を捨てる=相対主義

ではどうすればいいのか,一つの発想は「軸を捨てろ」ということです.これを 多分「相対主義」と言うのだと思います.個人個人好き勝手やればいいじゃないか という発想です.確かにこれなら強制されることが嫌で逃げ出す人もおらず, みんなハッピーになれそうな気もします.誰も他人を軸で評価することなく, 全員が1対多の対峙をする.

しかし,相対主義には重大な問題点があります.それは「なぜ人を殺しては いけないのか」に答えられない点です.完全に「人それぞれ」にしてしまえば 誰かがそう言ったところで何かを前提として説き伏せることは出来ない以上, その人が人を殺すのを止める論理的な力はないということになってしまいます. そこで,完全に人それぞれにするのではない方法を考えて見ます.それが 方法論的多元主義であり,関心相関性につながっていく考え方です.

解釈の多元性を前提とする「方法論的多元論」と「関心相関性」

みんなが軸を捨てた結果,ある意味無法地帯の相対主義に行き着きました. これはそれほど良いとは思えません.なので,軸を捨てることは難しいと 思います.さらに言えば,軸を明確に打ち出したからこそ,西洋文化の 発達があったことを思えば,敢えてそれを捨てる必要はないと思います. そうであれば,変えるべきは解釈のあり方でしょう.

プラトニズムでは前提として「解釈も一通り」としたけれども,実際それは 無理だったから変なことになったわけです.だったら,そもそも解釈は たくさんあるという前提で考えればいいのではないか.つまり,戦略的に 「多元主義的な解釈を許す」という立場から考えをスタートさせてみよう, というのが方法論的多元主義ということです.

ですが,これだけでは相対主義とあんまり変わりません.そこで必要になる 考え方が「関心相関性」ということになります.軸の解釈をどのようにするかは その人の関心に従ってやっているのだと考えることであり,こういう 視点を持つことで,様々な知見が得られてきます.

「なぜ人を殺してはいけないのか」については僕もまだ上手くはできて いないのですが,関心相関性を考えれば,多くの人が共通に思う関心に ついては,それを覆すのであれば,より説得力ある「構造」が必要なのだと 思います.ただし,このとき双方ともが,プラトニズムから抜け出しておく 必要はあると思います.絶対に正しい解釈は存在しなくて,より現象を 説明できる構造か否かが問題になるだけなのです.正しさは評価の 基準にはなりえません.ここに軸と解釈の一元性を持ち込んだら,逆戻りです. だから,「人を殺してはいけない」と思っている人の前に起こっていることを よりよく説明できる解釈を提示できれば,「人を殺すことが正しい」に なることもあるでしょう.実際,戦争が起これば容易に発生しています.

一つの解釈としての「真ん中折り返し理論」

それで,私がこのように世界に存在すると思われる様々な軸に対して どのような解釈に関心があるかと言いますと「真ん中折り返し理論」です. これは僕が勝手に言っているのですが,二項対立の発生する軸において, 実はその両端はおんなじようなものなんじゃないかということがベースに あります.先ほどの例で言えば,「自己中度」であろうが「自由な生き方度合」 であろうが,どちらにしても極端に偏っている点で,僕からは同じに見えます. 同じ穴の狢が言い争ってるだけです.本当に建設的に話し合うのであれば, まったく違う視点からの意見が必要です.その視点として私は軸の「真ん中」 に注目しています.

真ん中とはどちらでもないというよりは,むしろ両方の立場を理解した上で 振舞える人間のことです.臨床と基礎ならば両方を知った上で,両方を うまくいいとこどりできる人間でもあり,それぞれに反対の立場のよさを きちんと説明できる人間のことです.こういう立場の人間を交えて議論を すれば,二項対立の両端にいる人は自分たちの信念を敢えて曲げる必要は なく,真ん中の解釈もあるんだということだけ認めれば,争う必要も なくなるのではないかと考えています.別に,みんなにいつも真ん中になれ というわけではありません.というかそんなのはつまらない. 好きな立場を関心相関的に主張してもらっていいんだけど,そのときに 真ん中の解釈もあるんだということだけ留意しておいて欲しい. そのくらいは頭を使って欲しいと,僕は思うわけです.

二項対立の解消というと,素朴な考えでは,「どちらかに一本化する」か 「新しい立場に一本化する」と考えてしまいますが,それは無理です. 僕は別に立場は変えなくていいと思っています.但し,真ん中で話の 出来る人を見つける,もしくは作ることは必要だと思っています. 別にそれを強制はしませんが,その方が建設的ではないかと思っています. 立場を変えずにやるにはそれがベストではないかと思っています. ただそれだけです.

具体的な話には踏み込めませんでしたが,僕の関心は実は昔からここに 向いていたんだなぁと最近気づいた次第です.だから,これからも こういうことを主張していくんだろうと思うし,積極的にそこにむけて 動いていきたいと思っています.

まとめ

最後に簡単にこのエントリをまとめると,世の中には物事を2つに分けて 考える方法がとても多いけど,それは必ずその間の評価軸を前提とする. だが,軸を置いてもその解釈は一つではなく,全く逆の解釈をすれば 二項対立に陥ってしまう.プラトンから始まった思想では軸と解釈の 一元性を理想としていたが,そもそもそれは無理なので,解釈は 自由にやればいいという方法論的多元主義を取る.すると,解釈は 個々人の関心相関性で選んでいると見ることができる.そこで 僕は軸の真ん中に注目する「真ん中折り返し理論」という解釈に 関心があり,そういう人を認めることで二項対立は建設的になるんじゃ ないかという話でした(これだけでいいんじゃないだろうかw).

後記

しばらくブログ書いてなくて,いきなり長々書きすぎで反省してます. これを絶対に正しいとするのではなく,僕としてはこれをたたき台に さらに先へ進みたいと思っていますので,これ読んで何か思った方は, SBMやここのコメントに書いて頂いてもいいですし,TBしてもらっても いいですし,Twitterで言ってもらってもいいですので,何か反応を もらえると書いた甲斐があるというものです.

実例があまりにも乏しいのは僕がこういう頭でっかちでビビリだから, 全く実行に移せていないからです.でも,ようやく考えが言葉にできる 様になってきたので,少しずつがんばってみようと思います.そうすれば もっといい構造になるだろうし,説得力も出てくると思います.

ちゅう 08-09-07 (日) 1:25

>人間は2つに分けられる
人間の性格はたった4つの血液型で説明できる血液型性格判断なんてありますね。でも科学者はこういう単純な類型論はオカルトだの擬似科学だの言っているようですが…。最近では「水からの伝言」が有名になりましたね。人の言葉を「よい言葉」と「悪い言葉」と単純に二元化し、それぞれの言葉を浴びせられた氷の結晶が「結晶」と「非結晶」になるというオカルト。

09-03-23 (月) 11:47

すごく勉強になりました。
ずっと自分も2元論から脱したいと思い、いろいろ考察をしていたからです。

私は所謂真ん中の立場の人間になることがあるのですが、それぞれの端の人々両方から非難(?)にあうことがあり、結構心ぐるしいものがあります(笑)
もっとメンタルを強くせねば・・・

terute 10-08-10 (火) 11:35

真ん中折り返し理論ってアリストテレスの時代から言われている、中庸ってやつでは?

ないちゃーa.k.a.満元証 12-03-11 (日) 13:15

こんにちは。突然のコメント失礼します。

この度、拙著ブログにて東日本大震災から一年ということで思うところをブログの記事にまとめました。
「科学を偏重して宗教を軽視することは、もうやめよう」というタイトルで宗教と二元論というテーマについて執筆したのですが、執筆にあたりその着想をこちらの記事から強く得ました。

直接引用したわけではないのですが、一言お礼と共にご報告したくコメントさせていただきました。ありがとうございます。

乱文・雑文ですが、もしよろしければご覧下さい。
http://knighchr.seesaa.net/article/256898636.html

いのうえの 12-06-16 (土) 2:03

はじめまして。
「二項対立」という言葉を検索したら、このページがヒットしたのでお邪魔しました。
一読しての所感ですが、非常に面白く拝読しました。
どんな問題でも、実態としては中庸か、あるいはどっちつかずの立場が多いと思われるのに、議論は多くの場合、単純な二元論から二項対立に陥って健全さを失っていく、という経験をすることが多かったので、とても参考になりました。

さかぐちけいいち 12-12-25 (火) 12:02

二項対立を超えるにあたって、一番多いのが、折衷であるように思います。
ところが、折衷ではうまくいかなくて、少しひねったのが、弁証法の第三の立場の創設
それと古来からある二重性 色即是空空即是色
 
二項に分けるのは、確かに思考内容を整理するにおいて便利です
たとえば
二項対立を超えるにも、要素論的な越え方と全体論的な越え方がある というぐあいに