「多様性」だけではなく「多重性」の世界に生きる
太平洋戦争が終わって国民国家という概念は表面上は消え去り,没個性の 20 世紀が 終わって日本も「多様性」の社会になったと言われる.士農工商の時代には 人口のほとんどが農業従事者で,同じ様な生活をしていた.戦争の時代には 心の底はいざ知らず,表面上はみんな天皇の為に戦うことで一致団結していた. 高度経済成長でもほとんどが中流家庭を演じ,同じモノを買い同じモノを食べ 同じテレビを見ていた.長いこと「一様性」の社会に親しんで来た日本人だけど, ここ近年様子が違うなというのはみんな感じているだろう.
「一様」という社会
生来的には国内一様が理想であるはずの公教育ですら「子ども達の個性を大事に」とか なんとか言っている.彼らが言う個性は「ある方向」という大きな枠組みの中での 多様性に過ぎないので本質的には多様性ではない.しかしまぁそれでもだいぶ 多様性に近づいたとは言えるだろう.
人間は本質的には「多様」である.近代はまずこれを否定することから始まっている. 「我思う故に我あり」の「我思う」を「あなたが思う」「彼が思う」と置き換えても 「思う」は同じなんだということが出発点となっている.根源的に考えれば, 私の「思う」とあなたの「思う」が同じである保証などどこにもないのに, それはさておき同じだということで話をすすめてきた.だから公教育は 必要だった.「同じ様に思って」もらわないと困るのだ.
結局それがどこに行き着いたかと言えば,国民国家であり,世界大戦や冷戦だったのでは ないだろうか.どうがんばったって,もともと一様でないものを無理矢理ひとつに しようとすれば,複数が乱立するに決まってる.結局,自分達の仲間うちで 一様だと了解できるものを他に押し付けることしかできなかった.有史以前からそれは ずっと続いてきたことだし,それが明確に地球規模を持って表れたのが世界大戦だった.
さらに問題点を指摘すれば,実はその国家の中ですら一様は保たれていない. なぜなら人間は多様だから.なんで同じ村に生まれたというだけで同じ価値観を 共有できようか.そんなのちょっと頭を使えば分かったはずなのに,無視し続けた. その方が物事が簡単にすすみ,都合がよかったからだ.丁度,近代科学が 客観性をその根本に求めた様に.お陰で僕たちは今こんな豊かな世界に暮らしている.
多様性への変化
でも,もうそろそろほころんできている.飴玉あげればどんな子どもも よろこぶけれど,その子達は大人になるとその趣味趣向は様々に変化する.飴が 嫌いになる子だっているだろう.今は社会がそういう段階に入っているんだと 思う.つまり,一様性で話が済んでいた「幼年期」を抜け,それぞれに 楽しみをみつける「少年期」に入って来たのではないか.
ある子はとてつもなく異性に興味が出てくるでしょう.ある子はアニメが 死ぬ程好きになってしまうでしょう.またある子は人をいじめることに 快楽を覚え,他のある子はあまりの生きづらさに死を選ぶかもしれません. いずれにせよ,「個性」が表出してくる.その個性をぶった切って, 「黙って勉強してりゃいいんだよ」と一元化するのが学校教育というものだし, みんな異性と付き合うもんだと布教する恋愛教というものもある. やるせないね.生きづらい.
今,社会はこ一様化から脱して「個性の時代」つまり,「多様性の時代」に なってきていると感じることは多いだろう.かつては存在が認められなかった マイノリティがどんどん大きくなり,いつのまにかマジョリティがどれだか わからなくなる現象はそこかしこで起こっている.コミケはすっかり市民権を 得てしまった.仕事の形態も多様化し,アフターファイブなんて言い方できなく なってる.
人間は本来多様なんだから,「多様化の時代」は良い方向へ向かっているのだろうか. 実はそうでもない.多様化は一歩間違えれば結局局在的に一様を生むに過ぎない点で, 大戦争を引き起こした国民国家と対して変わらなくなってしまうことがある. それは,小学生や中学生を見ていればよく分かることで,彼らはよく小さく群れる. 異性に目覚めたグループとオタクに目覚めたグループはなかなか混じり合わないだろう. 下手をすれば価値観論争をしだしてケンカになってしまうかもしれない.
ある意味で,だからこそ社会は「客観」を重視してきた.客観的な法を作ることで 主観によらずに「悪い」やつを裁くことができたし,客観的と言われる手法を 積み上げることで近代科学は発展してきた.
そう考えると,結局この「一様」と「多様」の間を行ったり来たりするしか ないのだろうか.僕はそうは思わない.次のステップへ進むために必要なのは 「多重性」だと思ってる.
「多重性」というキーワード
「一様」は一見安定をもたらす様に見えるが,その裏で抑圧されるものが 大きい.「多様」は抑圧されず皆好きなことができるが,利害が一致しないと 大変なことになる.こんなことはあなたの周りにもたくさんあふれているはず. 「いいから勉強しろ」と一様的に親に言われると「好きなことやらせてよ」と ムカッとするけど,「人殺しが好きです」という人の「好き」を認めることの できない精神構造を持っている人が多いと思うけど,まさにアンビバレンツだと思う. なんでなのか説明できないのだ.
構造構成主義であったり構造主義科学論では,ここに「構造」というものを 持ち込むことで,多様性を担保しつつ次のステップへ進むことを可能たらしめている. つまり,あなたと私の「好き」は違うかも知れないけど,それらを共通に 説明できる「構造」を見出すことができれば,双方の深い理解につながり, 「好きだから何でもアリ」という少年期を抜けて大人になることができる. 細かい話を省けばそういうことを言ってる.詳しく知りたい人は本を読むこと.
僕はこの説明に「多重性」というキーワードを持ち込みたいと思っている. 「多重性」とはなにか.ずっと説明をせずに来たけど,僕が言いたいのはこういうこと.
A という立場と対立する B という立場があるとする.「一様」とは,A または B または それ以外の C という立場にともかく統一することであり,「多様性」とは A も B も C もなんでもアリだよねということ.この流れで「多重性」を説明するなら 「A でもありかつ B でもある立場」ということになる.
つまり,文系と理系とかじゃなくて両方を直感として語ることができるとか, 学問も運動もできるとかそういう感じ.重要なのは,たとえその人のメインの 立場が A であったとしても,B を語る時に「第 3 者的に」語るのではなく, 「主体として」語ることができるという点が「多重」に込めた意味だ.
一様の世界でも多様の世界でも,自分と異なる立場の人を「客観的に」語ることは できる.でもそれは結局「私とは違う人のはなし」というカテゴリーで 終わってしまう.それがどれだけむなしいことだったかは,歴史が語っている. 異性愛者と同性愛者はどちらも他方を「違う人間」と思ってしまうだろう. でも.「両性愛者」であれば,どちらの立場も「主体」として感じることができる. そういう人がいることがこれから重要なのではないか.
アーリーアダプターの立場と一般人の立場を両方分かる人はサービスを 作る上で必須だろう.科学者であり芸術家である人の研究はわくわくさせられる. 大人と子どもを両方とも主観的に感じられる人は世代をつなぐはしごになる.
重要なのは,「外から分かる」のではなく「内なるものとして両方分かる」ということだ. そういった「多重性」を持った人間を作って行くことが必要なのだと思う. もちろんこれを全員に求めるのはあり得ない.それは「一様化」と呼ばれるやり方だ. 一つの道を突き進むのが得意な人もいれば,複数の道を同時に歩くのが好きな人もいる. もっと言えば,同じ人でも分野によって両方の「多重性」を持つはずだ. 学問/芸術の分野では多重性を発揮する人でも,毎日の情報源は新聞しか認めないという 人がいるかもしれない.逆に情報は新聞だけでなくテレビもネットも主体的に 使っているけれども,芸術は絶対にやれないという人もいるだろう.
基本的にはこれからは「多様性」は認めざるを得ないだろう.だが,それだけでは 「なぜ人を殺してはいけないのか」という類いの問いに答えることができない. これらの問いに答えるための道具として「多重性」というキーワードが重要になると 僕は考えている.「多重性」を発揮する人間は,構造構成主義で言う「構造」を 見出す能力に長けている状態にある.なぜなら,構造とは複数の主体の眼前にある, 全て異なるかもしれない現象にたいして存在する「共通の枠組み」のことであり, それを見出すには,双方の立場を「実感として」分かる人であった方が有利だ. なぜなら,まるで量子コンピュータの様にそれら異なる立場を重ね合わせて, 一気に構造まで落とし込むことができるのだから.
中途半端な自分に対する解
と,まぁここまで書いてみたが,結局自分に対する言い訳というか,自分に 対する説明がしたいから書いてるだけなのかもね.僕自身はまさにここに書いた様に 「多重性」を地でやってきている.いろんな立場を経験してると思うし,いろんな 物事をやってきたと思う.でも,どうしてもそれに対して「中途半端」という 批判が入ってしまう.しかし僕にはこうすることしかできない.
「中途半端」に生きる価値がないのであれば僕は今すぐ死ぬしかない.そうで ないのであれば,僕が生きている価値はなんだろう.そう考えて行ったときに, 「多様性」と共に「多重性」というキーワードを並べることで,なんとなく 自分が生きている意味が分かった気がした.
僕自身はなにもすることはできない.でも,A ができる人と B ができる人の間に たって,双方がうまくいくような「環境」を提案することはできるかも知れない. そんな感じで生きていきたい.
そういう宣言がしたくて,ずっとこのエントリを書きたいと思っていたが, ついに勢いにまかせて書くことができた.揚げ足取りでもなんでもすればいい. すべてが僕にとってプラスになるのだから.
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通りすがり 09-03-18 (水) 8:28
はじめまして。
「多重性」というキーワードを上げられていますが、それは言い換えれば「折衷主義」、はたまた「ご都合主義」とできるのではないでしょうか。例えば「一様性」と「多様性」という対立は、憲法でいうところの、「公共の福祉」と「人権の尊重」の対立に置き換えることができると思うのですが、その場合、両者の裁量がお上に委ねられている部分が大きく、よって、論理的に両立し得ない弱みに付け込んで、既得権益者が論理破綻している法律をやりたい放題、といった具合です。つまり、「多重性」というものはすでに事実上アメリカによる日本国憲法制定依頼、日本に存在していて、その「多重性」の弱点が原因で、お上の搾取がまかり通ったいう側面があります。法律の専門家はその「多重性」(論理破綻)をすでに自覚しているのですが、大衆は法律に疎く、よくわかっていない。そういう意味では、国民が法の「多重性」を理解することは重要であると言えます。
法律の論理破綻についてのリンクも貼っておきます。
http://realiste0.blogspot.com/