僕が見てきた範囲での教育についての今の考え

@next49 さんが非常によくまとめられたエントリを書かれていました。自分の問題意識ともかなり通づる部分があり、色々な議論の土台としてすばらしい内容だと思います。

以下の 4 つの目的の教育機関が必要

・高校と企業の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
・高校と社会の間のギャップを埋める知識・技術を教育する機関
・高校までに学び損ねた知識・技術を教育する機関
・科学や技術自体の発展を主たる目的とする学術機関

高校と社会のギャップを埋めること、高校までに学び損ねたことを再教育することが良い社会の維持にとって必要不可欠。でも、今の高等教育の主題は高校と企業のギャップを埋めることと科学や技術自体の発展させることの二つのみ。

日本の教育システムに関する今の私の考え – 発声練習

さすがプロとして教育の現場にいらっしゃる方の言うことはぐっとくるなぁと思います。僕はまだ教育に足を踏み入れられていません。今後絶対に足を突っ込むつもりで、色々考え、語るのはその後にしようと思っていたのですが、せっかくなので今の考えを忘れない様にスナップショットしておこうと思います。

以下、あくまで僕の主観に基づく僕の考えを書きとめておきます。僕がこれからやりたいのはこれが”正しい”のかどうかを一つ一つ探求していく作業。先達の方々からの「これをリファーすると良い」といったアドバイス頂ければ幸いでし、またこれを元に議論が発展してくれれば幸いです。

初等教育にももっと変化を

問題意識の整理は next49 さんのエントリを下地とします。僕は例の退学エントリでも書いた様に、大学院は4.であるべきなのに1.になってるんじゃないのと思った部分もあって、辞めました。1 ヶ月で書いた卒論で学位が取れてしまう大学も、授業に出席すれば単位の出る大学院も、4.としては不十分ですが1.としては十分なのだと思います。

また、@clear_wt さんのこちらの感想はもっと僕の感覚に近いです。

next49 さんのエントリでは、高校以降の教育を主眼に書かれています。まだ大学の方が変化させやすいのは間違いないでしょう。でも、clear_wt さんのおっしゃる様に「大学」という同じ名称の元に1〜4の役割を様々に担っている状況は、大学から縁遠い人から見てとても分かりづらい状況だと思います。少し前に天野先生の「大学の誕生」を読みました。日本の「大学」の歴史を見ると、そもそもそうやって役割が違う形で成立した教育機関をまとめて大学と呼ぶ様になった流れが細かく語られていました。それをそのまま継続発展させていくのは確かに楽というか素直な気はしますが、僕の様に頭の悪い高校生には分かりづらいことこの上ないです。

その意味で clear_wt さんのおっしゃる様に、徐々にそれを整理していくのが一つの形だと思います。1〜4にそれぞれ名前が与えられ(プログラマの皆さんは分かると思いますが名付けは重要な意味を持ちます)、今よりももっと明確に複数の教育機関の選択肢が与えられる。テストの点数という一次元上に並べられるのではなく、多次元な選択肢が生まれてくるというのは、多様性が認められつつある現代においてはごく自然な流れではないかと思います。

そしてそれに連動する様にして、初等教育も変化していくことが望まれます。それは飛び級かも知れないし、一芸に特化した人を掬い上げるものかも知れませんし、はたまた今で言う「オチコボレ」に対するゆっくりとした生涯教育なのかも知れません。いずれにせよ「15 の春を泣かせない」に代表される様に、ところてん式1に押し出していくことを前提とした初等教育は変わっていくべきだと思います。

もちろんこれらは茨の道でしょう。今や社会はところてん文化で育った人が社会の構成員のほとんどを占めています。相当に”マッチョ”な人でなければ、レールからそれた人生を何の武器も無しに生き抜くことは難しいでしょう。未成年の彼らに対して、「さぁ茨の道を自らの足で歩め」といくら言ったところで、言ってる当人が守られた少年・青年時代を送っていたとすればきっとそれは伝わらないでしょう。なにせ自分の青春時代は人生に一度だけ。年を取った僕たちには、彼らに青春時代を後悔して欲しくないという気持ちがあるからこそ、簡単に冒険しろと言えない気持ちもあるのは事実ではないかと思います。

だからこそ、彼らにきちんと武器と防具を与えるような初等教育が望まれるのではないかと思います。世の「最低限はこれぐらいの知識を」と言うものは、この目的の元に再整理した方がいいと考えます。

もっともっと根源的な問いを

以上の様に、茨の道であることは分かっていますが、僕は教育システムというものは初等教育からも大きく変わっていった方がよいと思っています。

その範囲はそもそも「学校」という組織自体に対する懐疑も含みます。今の僕はかなり内藤朝雄さんに感化されていますが、かなりトガッたことを言えば、「たまたま同じ地域にいて」「たまたま同じ年に生まれて」「たまたま同じ学校に入って」「たまたま同じクラスになった」連中や先生と仲良くする必然性を感じない人もいるということです。

「いじめ学の時代」や「自殺するならひきこもれ」には、そういった集団からドロップアウトする選択肢というのがあるのだと書かれています。ところてん式の文化に慣れ親しんだ人にとって、道からそれることに対する恐怖は耐え難いものがあるのは僕にも十分分かります。無意識のうちに自分をそれで縛ってしまい、視野がせばまり、そして死を選んでしまう若者は少なからずいると思う。僕も一歩間違えればあの時死んでいた。

逆に集団の中にいると自己顕示欲に取り憑かれて、いじめる方にまわってしまう人もいる。僕はこちらのタイプの要素も持っているのでよく分かる。同族集団の中で自分だけは違うんだということを確認したいが為に、牙をむいてしまう。こういうタイプも結局はそういう集団の中にいること自体が不幸だったりする。

完全に環境のせいだけにするのは良くないけれども、ところてん式の社会の中でせまい視野の人がせまい視野を教え続けることによる不幸のデフレスパイラルはどこかで断ち切らないといけないと思う。そのための鍵は「多様性を知る」ということだと僕は考えている。

構造構成主義」との出会いは鮮烈だった。僕がぼんやりとこんな感じで考えていたときに、多様性を下地とした上でもきちんと論理的な構築を行うことができ、異なる人の間でどの様にして共通認識ができるのかについて、一つの論理だった筋道を作れるんだということを示してくれた。構造構成主義と出会って、ところてんだけが他人を理解する手段じゃないということに自信を持てる様になった。

僕が僕として生きるために

僕の教育思想の根底にあるのはこういうことだと思う。ともかく視野を広げて欲しい。そのためにどの様な手助け=教育ができるのか。その答えはまだ無い。この道筋が妥当なものなのか、妥当でないならどう読み解くべきなのか、妥当であるならどの様な答えがあるのか。それを知りたい、研究したいというのが僕が「アメリカの大学院で教育を勉強する」と吹いているものの具体像である。僕は教師になれる人種だとは思っていないが、教師だけが教育によって他人の手助けをできる職業ではないということを示したい。無いのなら自分で作りたい。

今すぐに変えられる部分という意味で next49 さんの指摘は非常に鋭いし、僕も賛成だ。だが、石井裕先生に出会ってしまった僕は 200 年後の世界を思い描かずにはいられない。目先の可能な変化だけではなく、200 年後にどの様な貢献ができるか。何かに迷ったときに常に思い出したい。

初めてきちんと言葉に落とし込んだけど、この思いがグッと頭に浮かんできたからこそ、今僕は生きていられる。不器用な人間だと思うだろうが、こうしないと生きていけない。探求したいものがある。今はまだ準備が整っていない。全てが準備不足。タイムリミットは 30 歳とした。あと 4 年を切っている。やりたいこと・やるべきことは山の様にあって、だからこそ生きていられる。

Stay hungry, Stay foolish

少しずつ少しずつ、視野を広げやすい世界になってきたと思うし、その一翼を担っているのはまちがいなくコンピュータとインターネットだ。だからこの職業でそこにコミットするというのもたまらなく楽しいし、自分がやるべきことだと思っている。ただ、不器用な自分は 1 つだけではダメなんだと思う。もう一つの柱、必ずやり遂げる。このエントリの続きを書き始める時には、もう一度、学の道を踏み出し始めていることだろう。

Footnotes

  1. ところてん式という言葉はこちらから頂きました。「大学でアルファベットを教えて何が悪い – bluelines