私と英語
2016 年を振り返ると、英語力がめっちゃ上がった 1 年だった。せっかくなので自分用備忘録も兼ねて、自分の英語歴をメモしておく。あくまで僕はこうやったというだけの話なので万人が同じようにやるものではない。
なお、以下のブログの夫婦のエントリを見て触発されて書いている。
中学
中学の授業で初めて英語を習ったわけだが、5 文型を教えられなかったので文法の根本がわからず、動詞の不規則変化にも挫折し、今後は出来る限り英語とは距離をおきたいと心に誓っていた。日本を出たいとも思ってなかったし、それで困ることはないと思ってた。
1 つ良かったことを上げるとすると、なぜか発音だけは褒められることがあって、スピーチコンテスト(スクリプト読み上げるだけ)みたいなのに、帰国子女の人と僕が出ることになったりした。暗号を読み上げるだけで意味はよくわかっていなかった。
高校・大学
高校の英文法で初めて 5 文型というものを知り、やっとスタートラインに立てた気分。なぜ中学でこれを教えてくれなかったのかと、教育課程を恨んだ。それでも中学のネガティブな印象のまま、大して成績も上がらずだった。ただ、夏休みの宿題か何かで与えられた英語の本(薄い物語)を全訳するという課題を、何故か真面目に全単語英語辞書で調べながらやるというのを数回やってみたぐらいから、ちょっとずつ英語が読める様になってきた。もちろん辞書必須だけど。。
そこから大学受験に向けて英単語をただただ機械のように暗記し続けてみたら、それだけで英語の点数が上がり、実際ちょっと長い文章を辞書無しでも読んで、全訳は無理だけど意図を取れる様になってきた。この時使った単語本は、覚えられなかったやつに毎回正の字でマークしてたらマークするスペースが無くなるくらいまでやって手垢で真っ黒になった。
しかし、リスニングが全くダメだった。ほとんどやったことないからそりゃそうだ。これも仕方ないので、NHK ラジオの番組を録音して毎日通学で聞き続けた。2 番組くらい聞いてた。これも続けた効果はあって、試験レベルであれば多少は聞き取れる様になった。
結果として、受験科目の中では英語と物理が一番自信ある科目になった。受験という 1 つの目標があったから頑張れたと思う。そして大学に入った後は全く英語をやることなく過ごし、大学受験英語で止まったまま社会人になってしまった。大学で英語をやるモチベーションが無くて、英語の講義でイギリスの新聞とかをいきなり渡されても困ってしまうので、最低限の労力しか払わなかった。
ちなみに、ここまでの人生で海外に旅行した経験は大学の時にたった 1 回で、そこでも英語を使う機会はほぼ無かった。
25 歳〜27 歳
社会人になっても日本の会社で英語を使う機会は皆無、強いてあげればドキュメントが英語なのでそれを頑張って読むくらい。でも、何を思ったのか海外のカンファレンスに参加してみようと思い、会社の制度を使って参加してきた。25 歳でたった 1 週間の初めてのアメリカ。この時の衝撃は今でも忘れない。1 週間滞在して自分の口から英語をまったく喋らなかった。コンビニでジュース 1 つ買うだけでも、何を言われてるのか分からないから、何も言えない。身振り手振り、単語のみというやつで生き延びていた。本当にひどかった。
MySQL Conference & Expo 2010 に参加してきます - As a Futurist…
とりあえず今回のカンファレンスで悔しかったのは2つの「話せなかった」。1つは英語がダメすぎて他の人としゃべったり質問したりできなかったこと。もう1つは自分が発表できなかったこと。来年は両方ともやる。道は遠いが、できないことはない。
— Ryosuke Iwanaga (@riywo) April 18, 2010
これがたった 6,7 年まえのこと。でも、この 1 週間が人生を変え、アメリカに行きたいと本気で思った。その理由はここでは「シリコンバレーの空が青いから」ということにしといて、しかし英語力が全くついてきていないという事実だけが残ってしまった。このままではアカン、ということでとりあえず TOEIC を受けてみたー 595 点。これはアカン。そこから英語の勉強を始めた。すぐに iPhone と Mac の言語設定を英語にした。
発音耳、瞬間英作文などの教材を少しずつやりながら、とにかくまずはリスニング強化しないと聞き取れなくて死ぬと思い、TED やらドラマの FRIENDS などをひたすら観た。中でも多分 100 回くらいは繰り返し観たのが、Steve Jobs の”Stay hungry, stay foolish”だ。当時は序盤だけなら暗唱もできていた。多分、僕の英語の発音は少なからず Jobs の影響を受けている。
結果、TOEIC の点数は 2 年間で 595->690->750->785 と上がった。そして、並行して会社のサポートを受けてアメリカで仕事をできる機会を得たので、渡航準備ということで会社でも英会話を受けることができた。ちなみに、ここまでで英語で仕事をする機会はゼロ。。。
TOEIC返ってきた。785点。2012年4月で750点、2011年11月で690点、2010年8月で595点。今回はリスニングがよくなってたのは予想通りかなー。リーディングがひどい。
— Ryosuke Iwanaga (@riywo) July 11, 2012
渡航前の YAPC::Asia では生まれて初めて英語でのプレゼンにもチャレンジした。この機会を与えてくれた YAPC::Asia には本当に感謝。
YAPC::Asia 2012 にフル参加してトークと LT もしてきた #yapcasia - As a Futurist…
28 歳〜30 歳
アメリカへの渡航前に 1 週間フィリピンの語学学校で英語を特訓させてもらう予定が、ビザ取得のためにパスポートを大使館に提出したらしばらく返って来ず、結果として特訓することなく丸腰で渡航することになった。そんな始まりで、日本人がいないチームの中サバイバルをしていた 1 年間のアメリカ生活。
サンフランシスコ生活始めました - As a Futurist…
最初は本当にみんな早口で何言ってるのか分からないし、そもそも自分のことを英語で説明する機会もこれまで無かったので、全てが手探りだった。でもお陰でメリハリの付け方がわかり、英語の(というか西海岸の?)リズムがつかめてきた。ホントに大事なことの前に冗談が入るので、どうでもいい雑談が始まったら集中力を温存して、本題に入ったところで全力で英語を聞くとか。
あと、チームにものすごい早口の人がいていつも何言ってるか全然わからなくて英語力伸びないなぁと凹んでいたら、ある時その人だけ WFH で電話で会議に参加してて、同じ部屋にいたアメリカ人達も「早口で何言ってるか全然わからんから、もう一回ゆっくり喋って」と言っていた。なんだそんなに気にしなくていいんだ。
滞在中は英会話も定期的に受けていたけど、1 年で英語力が超絶上がったかと言われると決してそんなことは無かった。語彙が増えたわけでも流暢に話せるようになったわけでもない。ただ一つ、こんな自分でもやっていけるという自信がついたことが何よりも得難い経験だった。何言ってるかわからなければ聞き返せばいいし、こっちの意図が伝わってなければ何度でも言えばいい。かっこいい英語なんていらなくて、生き延びることの方が大事。
サンフランシスコ生活終わりました - As a Futurist…
1 年後日本に戻ったあとは、そこから 1 年間英語とは全く縁のない生活になってしまった。NFL を観まくっていたので Listening だけはずっとやっていたかな。
31 歳〜
Amazon に転職した。入社後 1 ヶ月で社内のカンファレンスのため久々にアメリカに行ったが、英語が全然ダメになっていた。聞けない・喋れない。1 週間滞在して日本に戻ると、仕事はほとんど日本語なのでこれではアカン。ただ、幸運なのはグローバルに展開するビジネスに参画できているので、英語を話す相手は世界中に山ほどいるということ。最初はメールを書くだけでもビビっていたけど、数をこなすうちにだんだんと慣れてきた。英語で出てくる情報を日本語でタイムリーにお届けするために、かなりの量とスピードで和訳もこなした。
そんな折に担当しているサービスの開発チームが来日するので、日本のお客さんのところにたくさん連れて行くということになった。ただ、お客さんは英語は喋れないし、ゲストも日本語は喋れない。仕方ないので、自分が間に入って双方向の逐次通訳をすることになった。通訳なんてやったことなかったけど、幸い製品やその技術領域には詳しいのでなんとか形になった。
短めではあるが英語でのプレゼンを社内でやったり、テレカンに少し参加したり、と徐々にアウトプットもできるようになったかな、と思った 1 年目。
で、去年が 2 年目だったけどそこから更にジャンプアップできた。そこまで自分が詳しくない領域だが通訳が足りないということで 1 日通訳し続けたけど、特に課題は感じなかった。海外カンファレンスに参加するついでに HQ オフィスに寄って、そこでしか会えない人に会って 30 分で必要な情報を聞き出し要望を伝えるのを何回もやったり、英語でのブログに貢献したり、英語での発表を社内外でやったり、もちろん和訳もたくさんやった。スライドを作る時はまず英語で作成してから日本語もついでに作ってた。今日もテレカンで英語のプレゼンをしていた。日本で働いていても英語を伸ばすチャンスはいくらでもある。
ある時、アメリカから来ていた人たちと食事をしながら喋っていたら「あなたアメリカのどこに住んでたの?」ってアクセントから聞かれた。隣の席は帰国子女で英語ペラペラな人だったので、自分もそういう感じに思われたらしい。「San Francisco に 1 年だけ住んでました」って答えるのがちょっと恥ずかしかった。
おわりに
2016 年の自分の英語力の伸びには正直驚いた。アメリカで仕事をするという目標に対して、自分は英語力と技術力の両面で足りないなとずっと思っていて、技術力をなんとか高めて拙い英語力をカバーする形で最初は行くしかないか、と計画してたんだけど、まさか先に英語力の方が実用レベルに達するとは思わなかった。
25 歳で初めてアメリカに行った時の絶望感、そこから 6,7 年でこんなに変わるものか。今日も明日もアメリカの人達とテレカンしてる自分を、あの時想像することは絶対にできなかった。中学の時にはできれば英語とはかかわらない人生を送りたいと思っていた人間。何が自分をここまで押し上げたのか?それはやはりいつかアメリカで暮らすために絶対に必要な道具の 1 つだから、というプレッシャーだろう。英語を武器にしたいんじゃなくて、英語で生活したい。ちょっと英語がうまくなりたいとかとはベクトルが違う。でも、本気でやればおっさんになってからでもいけるもんなんだ、と自信がついた。
6年前、初めてアメリカに1週間滞在しただけで絶望した時には、今自分が英語で仕事してる姿は到底想像不可能だったけど、現にできたわけで、人生何が起こるかはわからん。そして、チャレンジをやめてはいかん。
— Ryosuke Iwanaga (@riywo) June 21, 2016
次は技術力だ、2017 年は頑張ろう。Never too late to learn.